菊之助も百合も慄然とした。
 
これは、妖よりも恐ろしい。

凶暴性だとか強さだとか、そう言ったものではなくて、本能的な恐怖心を煽られるような、恐ろしさだ。
 
一拍と置かず、男の割れた口から、あの黒煙が吐き出された。

ひと塊のそれは、瞬く暇さえ与えず、二人の体さえ見えなくなるほどに、菊之助たちをすっぽりと包囲した。


「野郎!」


菊之助は刀を正眼に構える。
 
負けてはならぬ。

菊之助は己の唇を噛み締めた。

ここで負けては、百合の身に何があったっておかしくはない。
 
菊之助は自分たちをぐるぐると囲む黒煙の隙間から、垣間見える男の腹めがけて、刀の切っ先を立てた。

そして、そのまま刀を持って突進する。
 
だが、男の悲鳴は聞こえない。

腹を刺されたというのに、男はびくともしていないのだ。


(化け物めっ) 
 

菊之助は刀を引き抜くや、次は黒煙を斬った。黒煙は斬撃の嵐を受けて散ってゆく。

しかしその刹那、黒煙が菊之助にのしかかり、押しつぶした。


「ぎゃっ」


うつ伏せに倒れ、菊之助は叫んだ。

煙のくせに、鉛のように思い。

内腑が圧迫される。

骨にひびが入りそうだ。

苦悶の表情を浮かべた菊之助が天を仰ぐと、頭上には、気を失ったのかぴくりとも動かない百合と、そんな百合を抱える南蛮風の姿をした男がいた。


「姉ちゃん!」


菊之助は大声で姉を呼んだ。
 
そんな菊之助を無視して、男は宙を蹴ると、風の流れの如く軽やかに、子の方角へと行方をくらました。

その直後、黒煙が一気に晴れる。


「待てーっ!」


菊之助は吠えた。
 
菊之助が立ち上がったころには、もう後の祭りだった。

しかし菊之助は、刀を手にしたまま子の方角に走った。

己の体力の限界を踏み倒し、弱音を吐く足腰に鞭を打つ。

おや、雨が降るぞ、と家に帰る人々に目もくれずに。
 
だかその力も、長くは持たなかった。
 
曇天から小雨が注がれ始めて、菊之助はとうとう力尽きて転けた。

直ちに体を起こすが、もう子供侍は、ぼんやりと首をもたげるばかりであった。


(姉ちゃん……)
 

菊之助は動かなかった。

諦めたのではない。

今すぐに子の方角へと走りたかった。

しかし、もはや体力は、猫の額ほども残っていない。
 
体がいう事を聞かないのだ。

一刻も早く、あの化け物のねぐらを見つけ出し、百合を救わなくてはならないのに。


(守れなかった)


誰よりも慈しんだ、姉を。
 
死んでも守ると意を決を決したというのに、この有様だ。
 
顔面の半分を左手で覆い、藍色の激情を喉の奥に引っ込める。

無数の雨の粒が、大ぶりな水塊となって地を殴打する。
 
たちまち菊之助の身体はぐっしょりと濡れた。

やっとのことで歩き出しても、ぬらりと道を練り歩くだけで、雨宿りをしようともしない。


「くっ……」
 

菊之助は項垂れ、声を殺した。

雨音に紛れて、からん、ころん、と下駄の音がする。
 
菊之助は震える肩を押さえつけ、なだめる。


「きゅん」
 

目の端には、大雨にずぶ濡れた一頭の野良犬が、長屋小路へと避難していく姿が映る。

そして余計に、震えが抑えきれなくなった。

------俺は強くなったから。
絶対に姉ちゃんを守っていけるから。


菊之助はいつだって、そう大言壮語していた。

……そんな事を言っていられた今までの自分が子供だったのだと、菊之助はようやく自覚した。