「どうして塩なのさ」
「長屋まで来たら、塩をぶっかけてやるのさ」
幽霊には塩が効くという話があるが、妖には効くのだろうか。
妖に対する塩の効力は不明瞭だが、とにかくやってみよう、と菊之助は心に決めて走る。
きちちっ------と、百舌のさえずりが、虚空に軽軽とこだます。
やはり奴か。
菊之助は確信する。
追いつかれたら、いつでも斬りかかれる準備はできていた。
びょう、と、暖風が肌を舐める。
「気味が悪いわね。
狐狸にでも出くわしたのかしら」
百合がそんなことを口にした。
むしろ、こちらに接近しているものが狐の類であってほしい。
万に一つ、あの化物が自分たちに狙いを定めているならば、命を賭して戦わねばならない。
菊之助の表皮は、ひどく汗ばんでいた。
いくら走っても、心なしか、この路が延々と無限に伸びているようだった。
距離としては一応進んでいるが、長屋に到着するまでの路が、あまりに長すぎるように感じる。
菊之助の体力は、まだあり余っている。それなのに、たった数尺先を走る姉の姿が、どんどんと大きくなってゆく錯覚に襲われる。
生温かい風と共にやってくるのは、軽快な百舌の声。
それと菊之助との距離が、徐々に詰まってくる。
すると上空を、ひょんと小ぶりな影が、二人を飛び越した。
そしてそれが姉妹の前に舞い降りるや、きち、と鳴いた。
そしてついに菊之助は、ちっと舌を打った。
「姉ちゃん、とまれ!」
菊之助は引きずっていたも同然の刀を両手で持ち上げるや、足を弾ませて百合の前に踏み出す。
柄を持つ手に左手を添え、二尺ばかり先の百舌を刃で叩いた。
骨を割った感触が、確かに伝わった。
やったか!?
百合を背に庇い、菊之助は血だまりを作る百舌の死骸を凝視した。
「お菊、これは」
「気にしちゃいけねえよ」
息を呑んで瞬く姉に、菊之助は短く切って言う。
(こいつあ、死んだのか?)
おそるおそる死骸に近寄る。
すると、何者かが突如としてやってきて、頭をかち割られた死骸を掌に乗せ、
「ああ!」
と鳴きそうな声で訴えた。
「なんてことをするんだ、ひどいじゃないか」
百舌の死骸を胸に抱き、啜り泣きを始めたのは、肌が白く身が細い男だった。
うつむいているせいで顔は見えぬが、無造作に結われた髷は、癖のある茶髪でできていた。
「この鳥は、あなたのものだったの?」
本当に申し訳のなさそうな百合の言葉に、うんうん、と男は顔を伏せたままうなづいた。
(百舌は、化け物のはずじゃなかったのか)
人が現れたという事は、あの化け物の術が消えた証だ。
しかし安堵してみれば、この男、急にやってきて、あたかも百舌の飼い主のような口ぶりで不憫に泣き出すのだ。
おかしい。
菊之助はいまいちど周囲を見渡した。
術が消えたと考えるなら、周囲の町人が出てきたってよいはずである。
それなのに、この場には菊之助と百合と、この男以外には、猫一匹だっていない。
「なんてことをしてくれたんだ。
これは、私の、私の」
男はいまだに泣いている。
う、ぐすっ、と男が嗚咽を漏らす。
おかしいと思いつつも、あまりに悲痛な男の背中を、これ以上見てはいられず、菊之助は刀を鞘にしまう。
直後、涙を拭った男が、ふっと面を上げた。
「私の化身なのに」
悍ましい声で男が、がっぱり、と顎を外して大口を開けた。
悍ましいのは声だけではない。
その眼に黒い瞳は在らず、白い眼球には血の糸が浮かんでいる。
べりべりと裂けてゆく口の両端からは、血が伝っていた。
「きえええっ」
百舌の死骸が、男の手の中で甲高く鳴いた。


