時を同じくして、菊之助が血相を変えて鯉口を切る。

喧騒な江戸っ子たちのざわめきが止み、声という声が絶たれ、急に痛いほどの静寂が訪れたからである。


(人が、消えた)


声も人の姿も、いつの間にか消え失せている。
 
二日前と同じだ。

菊之助は覚えていた。

あの黒煙と百舌のさえずりがやって来た時には、人っ子一人としてその場にはいなかったのに、それらが去って言った直後、何食わぬ顔で人々が周囲を歩いていたのを。

結界。

外界と己を隔てる術だ。

この現象は、段田が教えてくれた結界とやらの効果に似ている。

段田は最初から、この術とこの現象を結び付けて、睨みを利かせていたのかもしれない。


あの化け物が、来る。


確たる証拠はなかったが、菊之助の悪い予感というものが、異常に騒いでいる。

うなじに鳥肌が立つ。


来るなら来い。


菊之助は鯉口を切って構える。

その時、百合は菊之助の二の腕を掴むや、大股で家路を急ぎだした。

引っ張られて体勢を崩しそうになり、菊之助は口を尖らせた。


「何するんだよ、ねえちゃ……」

「走るわよ!」


凛として、百合が低い声で言い放った。

妖が視えぬ人間でも、突然に一変した状況を察する能力はあるらしかった。


「なんだか周りが変だ。
早く帰るよ」

「相手は人じゃないよ。
あれは」
 

菊之助は言いかけて気付く。

そうだ。

百合には妖が視えないのだ。

いくら相手は妖だと言っても、視えぬものからすればただの虚言である。


------だがそれも、妖が人に姿を見せなければの話、であるが。


「……わかった。
じゃあ帰ったら、真っ先に塩を持ってきてくれよ」
 

菊之助は冗談抜きで言うのだった。