「良い人っていうのはさ、知らない人。何も見ようとしない人。悪い人っていうのはさ、見えているけど、それが全てだと思い込んでいる人なんだよ」
階段を登りながら小宮は青年の言葉を思い出す。いつだったか、彼はそのようなことを言っていた。そのとき、小宮は、僕はどちらだろうかと質問した。
「そうだなあ、君は──」
彼は何と答えただろうか。思い出そうと頭の引き出しを覗くと、その記憶に引っ張られるように色々な記憶が甦る。青年の髪の毛。夜空を塗り込めた様な、美麗な艶。微笑む彼の声。あれは小宮がテストで百点をとった日か。痛々しい痣、悲しげな瞳。サエコと呼ぶ男の口。暗闇、暗闇、暗闇。
心臓が鬱々とした感情に覆われて、小宮は足を止めた。突如として、何をしているのだろうという疑問が頭を擡げたからだ。決して、今日も青年に牛乳を届けに行く義務はないのだ。というよりも、初めの一回以来、牛乳配達を頼まれたこと何ぞない。今の彼は何を欲しているのだろう。もしかしたらコーヒー牛乳かもしれないし、炭酸飲料のコーラかもしれない。話す機会は沢山あるのに、何も知らない。
ああ、徹底的に、無関係。



