「えっ」


 なぜ私の名を知っているのですか、とばかりに顔を上げる莢だった。


「どなたでございますか」

「何を言う、お前、俺を忘れて――」


 言いかけて天冥は、我に返った。

 たとえ自分のことを莢が覚えてくれていたとしても、莢の目に残る多優としての姿と、今の自分の姿はまるで別人である。

 貴公子を気取ったような付け髭をつけ、烏帽子をかぶっているうえに狩衣を着ていれば、
昔の天冥とは見分けもつかぬだろう。

 天冥はどうしてか、数える間もなく己がつけていた付け髭を取り、勢いよく烏帽子を外した。

赤茶色の、しかし綺麗なまでに細い乱髪が天冥の肩にかかる。


「多優だ」


 数年前までは莢に忘れてほしかった己の旧名を、まさかの天冥自ら口にしたのだった。

 莢は、目を見開いて、そしてどこかその瞳に果てしない喜びを浮かべた。


「・・・多優さん」


 心の底から喜んでいるのが見て取れる。
 
 それが何気なく、愛しい様子だったりする。紫色の唇がほのかにほころんだが、そこでとある事に、いまさら気付く。












 莢は、死んだのではなかったのか?