月夜は、その背中が完全に見えなくなるまで、片時も目をそらさずにいた。
 トコトコと近づいてきた阿修羅の鼻先を頭にのせられ宮へと促されても、うしろ髪を引かれる想いで何度も振り返った。

――ボクは…なぜこんなにあの男が気になるんだ。逢ったこともなかった相手にこだわる理由が、どこにある…。

 月夜は阿修羅に乗って霊山を出てから、叉邏朱を呼び出すのを躊躇った。
 本当にこのまま戻ってしまってもいいのだろうか?
 もし今後、二度と彼に逢えないのだとして、自分の不利益がなんなのかはわからない。
 しかし…月夜の胸は静まることを知らなかった。
 離れれば離れるほど、不安にも似た胸苦しさが増していく。

――きっともう、本当に逢うことはない。刻がたてば忘れるだろう。それで…いいんだ。

 月夜は阿修羅の首筋をひとなでして、懐から薄紙を取り出した。

――静まれ。

 叉邏朱の名をゆっくりと印す。

――静まれっ。

 指が震え、集中することができず、薄紙がはらりと落ちた。

「……なぜだ。なぜこんな――!」

 月夜は言葉を切って、霊山を振り返った。
 一瞬だけ、感じたのだ。
 幼い頃から感じていた、何者かの視線を…あの山から。
 月夜の中で、なんの関係もない点と点が、勝手に繋がっていく。
 多分それは己の希望が作り出す幻想に過ぎないことはわかっている。
 けれど…その幻想が、孤独だった月夜をこれまで支えてきた。
 それだけでもう、衝動に身を委せるのに十分な理由になった。

「阿修羅!」

 控えていた阿修羅に飛び乗った月夜は、一心不乱にふたたび霊山へと入った。

――もう一度、もう一度だけ…。

 月夜の強い願いに応えるように、阿修羅の啼き声がこだました。