「雪……」

 どこか懐かしい旋律が口からこぼれ落ちた。
 なぜだろう。曖昧な感触だけが胸に残る。
 虚しい、という残像。
 頼りない心を置き去りにして消えていくぬくもり…。

「だがもう逢うことはない……いけ」

 雪はつかまれていた背から月夜の手を引き離すと、もときた道を歩き始めた。
 背中が遠ざかるのを、すべもなく見つめるだけだった月夜は、思い出したように駆け出した。

「な、なぜっ!」

 雪の前に飛び出る。

「なぜ私を助けた! あのとき…貴方はどこから現れた! 気を失う前に見た、あの巨人は…」

 まくし立てる月夜に、雪はふたたび冷淡な目を向ける。

「助けたのは偶然だ。…お前が知る必要はない。巨人とはなんのことだ」

 素っ気なくそう答えると、雪は月夜を避けて進んだ。
 今度こそ万策尽きて、月夜の手から力が抜けた。
 もうこれ以上、彼を引き留めることは出来ないのか…。

――引き留める? 引き留めてどうする気だ。

 ふと懐に入れたままの書物の存在に気づいた。
 微かに覚えている巨人の記憶を頼りに、月夜はその正体を調べ尽くした。
 その手掛かりは、この中にだけあった。

――身の丈は山の如く、うねる闇色の髪を振り乱し、血走ったその目はひと睨みであらゆる生命を奪う。強靭な肉体に刻まれた呪いは触れた者を塵も残さず焼き尽くすだろう。その魔物は、神山に近寄る人間を糧に地をさ迷う醜悪な境界線の守護者である。

 千年以上も前に刻まれた碑文を写したものだった。
 それがあの巨人だったのかはわからない。
 しかしそれと雪のつながりがどこかにある。そんな気がした。