雪月繚乱〜少年博士と醜悪な魔物〜

 ナーガから連れ出され、この霊山の小屋に送り届けられたあの日、戻らぬ覚悟を決めていた月夜から、雪はなにも奪っていかなかった。
 命も、肉も、魂も、なにひとつ。
 なぜかと云う問いに、彼が答えたのはこれだけ。

「もう、貰った」

 その言葉の意味は、今もってわからない。
 でももし、彼が自分を守っていたのと同じ理由で、そう云っただけだとしたら。
 月夜にできるのは、それから解放してやることだけ。

「どこにでも行け。貴方の行くべき場所に……」

 胸の奥がまるで、切り裂かれるように痛い。
 月夜が怖れるものの正体は、自身にもよくわかっていなかったが、己の望みが叶えられた今、それ以上を望むことは強くはばかられた。

「……それがお前の、望みか」

――違う。これは貴方の望みだ。

「わかった。ならば叶えてやる……お前の望みのままに」

 雪の大きな手に引き寄せられ、その胸に頬をうずめる。
 やはり心音はなく、寄せては返す潮騒が響く。
 それが最後の旋律なのだと、目を閉じて月夜は耳を澄ました。

――だめ……ダメだ。

 不意に誰かが、耳元でそう囁いた。
 消え入りそうなか細い声が、月夜の中から湧き出すように溢れだした。

「できない……」

 雪の胸から顔をあげ、自分を見下ろすその瞳に、言葉にならない想いをぶつける。
 頬を熱いしずくが滑り落ちた。
 自分がなにをしようとしているのか、なにを云いたいのか、頭では理解できずにいた。
 じわじわと胸に押し迫る衝動が、今の月夜を突き動かす。

「……月」

 深い闇の色に沈んだ淡い輝きに、月夜は手を伸ばした。
 そっと手のひらで包み込んだその双眸が映していたのは、はじめて見る顔の自分。