ほんの数える程しか共にした事のない食事の中で、彼女のオーダーしているものを彼は把握していた。そのさりげない心遣いが叶子にとっては余計に苦しいものとなる事を知らずに。
───もう放って置いて欲しい。
そっちが忘れてくれと言ったというのに、何故優しくされるのかがさっぱり判らない。又その気にさせておいて、そして前と同じ様にあっさり振るのだろうか。
彼の事が、───判らない。
◇◆◇
「では、今日はこの辺で」
終始ジャックに見つめられてしまい、叶子は心ここにあらずのままで打ち合わせが終わった。全員が一斉に席を立ち出口へと話しながら向かう中、叶子はテーブルに広げられた書類をまとめ、カップを片付けやすいように端に寄せていた。
ジャックはそんな彼女を微笑みながらドアの入り口で待っている。待たれているプレッシャーに思わず手が震え、カップがカチャカチャと音を立てた。
叶子が慌てて荷物を持ちジャックが立っているドアに近づくと、自然と背中に手を触れ叶子を先にドアの外へと導いた。
社長だというのに一番最後に出た彼を誰も構いもせず、前方ではボスとジャックの社員達が熱く語りあっている。会議室を出た時は叶子の後ろに居たジャックも、あっという間に叶子を追い越し、両手をポケットに突っ込みながらすぐ前を歩き出した。追い抜きざまにジャックの甘い香りが鼻孔を刺激する。今となっては懐かしいその香りに、トクンと小さく胸が跳ねた。
打ち合わせ室が並ぶ廊下を彼の後ろをついて歩く。使用していない部屋は暗く、ドアは開いた状態だった。
また彼と再会する事は愚か、こんな場所を二人で歩く日がよもややって来るとは思いもよらなかった。今すぐにでも逃げ出したい気持ちをグッと堪え、あと少し、あともう数分でここから離れられるのだと何度も自分に言い聞かせ、自分の足元を見ながらトボトボと歩いていた。
ジャックはと言うと、扉の開いて居る部屋を覗きこみ、そのままその中へと消えていった。
その部屋を通り過ぎようとした瞬間、
「……? ――っ!」
叶子が顔を上げた時、目の前を歩いていたはずのジャックの姿が見えなくなっていた事に疑問を抱く間もなく、腕をグッと掴まれ部屋の中へ引きずり込まれてしまった。
叶子を扉に押し付けながら部屋のドアが閉まり、それと同時に手で口を塞がれる。扉が閉まった事で明かりの点いていない部屋はますます真っ暗になり、ボスたちの話し声は徐々に遠ざかっていった。
「シーッ」
人差し指を口に置き、ジャックはボス達が自分達に気付かずに行ってしまうのを待っている様子だった。彼の思惑通り、どうやらボス達はすぐ後ろで起こった異変に全く気付かず行ってしまった様だった。
ゆっくりと叶子の口を塞いでいた手を離すと、そっと、まるで壊れ物を扱うかの様に叶子を抱きしめた。
「逢いたかったよ」
「っ、」
その言葉を聞いて、また心臓が大きな音を立てた。
こんな事をして彼は一体どういうつもりなのだろうか。振ったのは彼。無かった事にしてくれって言ったのは彼の方なのに。
嬉しさよりも悔しさが込み上げて来て、叶子はジャックを拒んだ。
「や、やめてっ、――下さい」
両手をジャックの胸元に置き、彼を押しのけた。叶子を解放した彼の表情は、まるで捨て犬の様なとても悲しそうな目をしていた。
「そんな目で見ないで。……まるで私が悪い事したみたい」
「そんなつもりは」
「一体、何なんですかっ!? こんな事をして!」
「あの、少し君と話がしたくて」
「私は、ありません!」
外に出ようと、ドアノブに手を掛けた叶子をジャックが制した。
「待って! まさか君がこんな仕事をしていたなんて知らなくて、凄く、……びっくりしたよ」
「……もし私が最初から知っていたら、私はこの仕事を降りていたと思います」
背中を向けたまま、思って居る事をはっきり彼に告げた。
「その……、色々謝りたいんだ、君に」
「……。――!」
頬に何かが触れた事で、ピクリと肩を竦める。ジャックの手の甲が叶子の頬をすっと撫でていた。ゆっくりと後ろを振り返ると、哀しげな目で彼が微笑み、
「少し、……痩せたね」
と呟いた。
無神経極まりないその言葉にカッとなり、添えられた手を振り払ってジャックをキツク睨んだ。
「だっ、誰のせいだと思ってるのよ! ――謝りたいと思ってるなら、……少しでも私に悪いと思ってるなら、もう二度と私の前に現れないで!」
零れ出そうな涙を堪えながらそう吐き捨てると、一気に扉を開きその部屋から飛び出した。一人残されたジャックは叶子にかける言葉が見つけられず、伸ばした手をぎゅっと強く握り締める事しか出来なかった。
◇◆◇
(信じられない! あんな事……)
ジャックから逃れる為に、無我夢中で廊下を突き進んだ、頭の中がパニック状態になっていて、自分でも何処へ行こうとしているのかすら判らない。どれだけ進んでも、外へ辿り着かない事に気がつき、ハッと我に返った。
(あれ? ここ何処だろう)
辺りをキョロキョロと見渡していると、叶子の前を一人の女性が横切った。
「あの、すいません。エレベーターは、――あっ」
振り返ったその女性もまた、驚いた顔をしていた。
「貴方、……ここで何してるの?」
黒のスーツをパリッと着こなしたその女性は、ある意味二人を引き裂いたとも言える張本人、カレンだった。
「あの、……仕事の打ち合わせで来たんです」
「何? そのバレバレな嘘。貴方まだジャックにちょっかいかけてるの?」
「ほ、本当です! 私もびっくりしたんですから!」
「彼に、……会ったの?」
上目遣いで小さく頷くと、カレンは更に驚いた表情をした。かと思うと、すぐに目つきが鋭く変化していく。
「ああ、そう。──貴方が勘違いしちゃうといけないからこの際はっきり言っておくわ。彼と私は“男と女”の関係なの。わかる? あなたが彼に会うずっと前からね」
「っ、」
薄々感付いてはいたが、いざ面と向かって言われると計り知れない絶望感に襲われてしまう。言葉を無くしている叶子を見てカレンは満足気にほくそ笑んでいた。
「ああ、エレベーターを探していたんだったわね。それなら反対側よ、じゃあね子猫ちゃん」
カレンは片手をヒラヒラさせて、勝者の余裕かヒールの音をコツコツと誇らしげに鳴らしながら去っていった。
「……。」
思っていた以上にショックを受けてしまった。皮肉にもその事によって自分がまだ彼を忘れていないのだと言うことに気付かされた。
エレベーターで下に向かう途中、脳裏に二人が抱き合っている姿が何度もちらつく。かき消してもかき消してもすぐに浮かんでくる。
(どうして私ばかりこんな辛い目に? 私が何をしたの? たまたま同じCDに手を伸ばしてしまったのがいけない? 彼の冗談を真に受けて連絡しちゃったのがいけなかった?)
自分から彼に取り入った訳じゃない。今日だって仕事で来ただけなのに、なぜあんな事を言われなければいけないのか。
「……苦しい」
張り裂けそうな胸をぎゅっと掴み、唇を噛み締めた。
◇◆◇
「ああ、カナちゃん! やっと来た。何処行ってたの?」
「あ、すいません。ちょっとトイレに」
1階のエレベータホール前でウロウロと落ち着かない様子のボスが叶子を見つけ、ホッとした顔をした。そのまま一緒にロビーを出ると、客待ちしているタクシーに乗り込んだ。会社へ戻るまでの間ボスは又熱く語り始める。ボーっとした頭でボスの話を聞いていると、どうやら叶子が知らない間に話が進んでおり、次回の打ち合わせ日も決まっていた。
(又こんな気持ちを味わうかもしれない……。もう、うんざり!)
そう思った叶子はやっと、もやもやしていた自分の気持ちの決心がついた。
「ボス、私この仕事降ります」
───もう放って置いて欲しい。
そっちが忘れてくれと言ったというのに、何故優しくされるのかがさっぱり判らない。又その気にさせておいて、そして前と同じ様にあっさり振るのだろうか。
彼の事が、───判らない。
◇◆◇
「では、今日はこの辺で」
終始ジャックに見つめられてしまい、叶子は心ここにあらずのままで打ち合わせが終わった。全員が一斉に席を立ち出口へと話しながら向かう中、叶子はテーブルに広げられた書類をまとめ、カップを片付けやすいように端に寄せていた。
ジャックはそんな彼女を微笑みながらドアの入り口で待っている。待たれているプレッシャーに思わず手が震え、カップがカチャカチャと音を立てた。
叶子が慌てて荷物を持ちジャックが立っているドアに近づくと、自然と背中に手を触れ叶子を先にドアの外へと導いた。
社長だというのに一番最後に出た彼を誰も構いもせず、前方ではボスとジャックの社員達が熱く語りあっている。会議室を出た時は叶子の後ろに居たジャックも、あっという間に叶子を追い越し、両手をポケットに突っ込みながらすぐ前を歩き出した。追い抜きざまにジャックの甘い香りが鼻孔を刺激する。今となっては懐かしいその香りに、トクンと小さく胸が跳ねた。
打ち合わせ室が並ぶ廊下を彼の後ろをついて歩く。使用していない部屋は暗く、ドアは開いた状態だった。
また彼と再会する事は愚か、こんな場所を二人で歩く日がよもややって来るとは思いもよらなかった。今すぐにでも逃げ出したい気持ちをグッと堪え、あと少し、あともう数分でここから離れられるのだと何度も自分に言い聞かせ、自分の足元を見ながらトボトボと歩いていた。
ジャックはと言うと、扉の開いて居る部屋を覗きこみ、そのままその中へと消えていった。
その部屋を通り過ぎようとした瞬間、
「……? ――っ!」
叶子が顔を上げた時、目の前を歩いていたはずのジャックの姿が見えなくなっていた事に疑問を抱く間もなく、腕をグッと掴まれ部屋の中へ引きずり込まれてしまった。
叶子を扉に押し付けながら部屋のドアが閉まり、それと同時に手で口を塞がれる。扉が閉まった事で明かりの点いていない部屋はますます真っ暗になり、ボスたちの話し声は徐々に遠ざかっていった。
「シーッ」
人差し指を口に置き、ジャックはボス達が自分達に気付かずに行ってしまうのを待っている様子だった。彼の思惑通り、どうやらボス達はすぐ後ろで起こった異変に全く気付かず行ってしまった様だった。
ゆっくりと叶子の口を塞いでいた手を離すと、そっと、まるで壊れ物を扱うかの様に叶子を抱きしめた。
「逢いたかったよ」
「っ、」
その言葉を聞いて、また心臓が大きな音を立てた。
こんな事をして彼は一体どういうつもりなのだろうか。振ったのは彼。無かった事にしてくれって言ったのは彼の方なのに。
嬉しさよりも悔しさが込み上げて来て、叶子はジャックを拒んだ。
「や、やめてっ、――下さい」
両手をジャックの胸元に置き、彼を押しのけた。叶子を解放した彼の表情は、まるで捨て犬の様なとても悲しそうな目をしていた。
「そんな目で見ないで。……まるで私が悪い事したみたい」
「そんなつもりは」
「一体、何なんですかっ!? こんな事をして!」
「あの、少し君と話がしたくて」
「私は、ありません!」
外に出ようと、ドアノブに手を掛けた叶子をジャックが制した。
「待って! まさか君がこんな仕事をしていたなんて知らなくて、凄く、……びっくりしたよ」
「……もし私が最初から知っていたら、私はこの仕事を降りていたと思います」
背中を向けたまま、思って居る事をはっきり彼に告げた。
「その……、色々謝りたいんだ、君に」
「……。――!」
頬に何かが触れた事で、ピクリと肩を竦める。ジャックの手の甲が叶子の頬をすっと撫でていた。ゆっくりと後ろを振り返ると、哀しげな目で彼が微笑み、
「少し、……痩せたね」
と呟いた。
無神経極まりないその言葉にカッとなり、添えられた手を振り払ってジャックをキツク睨んだ。
「だっ、誰のせいだと思ってるのよ! ――謝りたいと思ってるなら、……少しでも私に悪いと思ってるなら、もう二度と私の前に現れないで!」
零れ出そうな涙を堪えながらそう吐き捨てると、一気に扉を開きその部屋から飛び出した。一人残されたジャックは叶子にかける言葉が見つけられず、伸ばした手をぎゅっと強く握り締める事しか出来なかった。
◇◆◇
(信じられない! あんな事……)
ジャックから逃れる為に、無我夢中で廊下を突き進んだ、頭の中がパニック状態になっていて、自分でも何処へ行こうとしているのかすら判らない。どれだけ進んでも、外へ辿り着かない事に気がつき、ハッと我に返った。
(あれ? ここ何処だろう)
辺りをキョロキョロと見渡していると、叶子の前を一人の女性が横切った。
「あの、すいません。エレベーターは、――あっ」
振り返ったその女性もまた、驚いた顔をしていた。
「貴方、……ここで何してるの?」
黒のスーツをパリッと着こなしたその女性は、ある意味二人を引き裂いたとも言える張本人、カレンだった。
「あの、……仕事の打ち合わせで来たんです」
「何? そのバレバレな嘘。貴方まだジャックにちょっかいかけてるの?」
「ほ、本当です! 私もびっくりしたんですから!」
「彼に、……会ったの?」
上目遣いで小さく頷くと、カレンは更に驚いた表情をした。かと思うと、すぐに目つきが鋭く変化していく。
「ああ、そう。──貴方が勘違いしちゃうといけないからこの際はっきり言っておくわ。彼と私は“男と女”の関係なの。わかる? あなたが彼に会うずっと前からね」
「っ、」
薄々感付いてはいたが、いざ面と向かって言われると計り知れない絶望感に襲われてしまう。言葉を無くしている叶子を見てカレンは満足気にほくそ笑んでいた。
「ああ、エレベーターを探していたんだったわね。それなら反対側よ、じゃあね子猫ちゃん」
カレンは片手をヒラヒラさせて、勝者の余裕かヒールの音をコツコツと誇らしげに鳴らしながら去っていった。
「……。」
思っていた以上にショックを受けてしまった。皮肉にもその事によって自分がまだ彼を忘れていないのだと言うことに気付かされた。
エレベーターで下に向かう途中、脳裏に二人が抱き合っている姿が何度もちらつく。かき消してもかき消してもすぐに浮かんでくる。
(どうして私ばかりこんな辛い目に? 私が何をしたの? たまたま同じCDに手を伸ばしてしまったのがいけない? 彼の冗談を真に受けて連絡しちゃったのがいけなかった?)
自分から彼に取り入った訳じゃない。今日だって仕事で来ただけなのに、なぜあんな事を言われなければいけないのか。
「……苦しい」
張り裂けそうな胸をぎゅっと掴み、唇を噛み締めた。
◇◆◇
「ああ、カナちゃん! やっと来た。何処行ってたの?」
「あ、すいません。ちょっとトイレに」
1階のエレベータホール前でウロウロと落ち着かない様子のボスが叶子を見つけ、ホッとした顔をした。そのまま一緒にロビーを出ると、客待ちしているタクシーに乗り込んだ。会社へ戻るまでの間ボスは又熱く語り始める。ボーっとした頭でボスの話を聞いていると、どうやら叶子が知らない間に話が進んでおり、次回の打ち合わせ日も決まっていた。
(又こんな気持ちを味わうかもしれない……。もう、うんざり!)
そう思った叶子はやっと、もやもやしていた自分の気持ちの決心がついた。
「ボス、私この仕事降ります」


