運命の人

「――、――、……ナ、――カ、……ナ」

 徐々に戻っていく意識の中、誰かが自分の名前を呼んでいる。目をうっすらと開けた途端、叶子の目に眩しい光が差し込んだ。

「っ、誰? 誰なの?」

 その眩しい光を遮るように手で目元を覆いながら声のする方へと問いかけた。ぼんやりと人影が映っているのは判ったのだが、逆光でその人影が一体誰なのかは確認する事が出来ない。

(誰? 誰が私を呼んで居るの?)

「僕、――僕だよ、……ジャックだよ」
「ジャッ……ク?」

 途端に眩しかった光が収まり、そこに居る彼の姿が徐々に浮かび上がってきた。彼はいつもの様に笑顔を浮かべ彼女の顔を覗き込んでいるが、なんだか様子がおかしい。

「やっと目を覚ましたね」
「――ここは?」

(何処?)

 上体を起こし辺りを見回した。真っ白なベッドの上、壁も窓もない真っ白な空間の中に居る自分。今自分が置かれている状況がまだ飲み込めなくて放心状態になった。
 ベッドに腰掛けて居る彼が彼女の手を取ると、甲にそっと口づけた。

「あのね、カナ。よく聞いて」
「え?」
「僕はもう行かなくちゃならないんだ」
「何処へ?」
「遠い所さ」
「……。」

「しばらく会えなくなるけど、僕は君のそばにいるからね」

 彼は叶子の返事も聞かずにベッドから立ち上がると、大きな掌で彼女の頬にそっと触れた。ぎりぎりまで彼女の温もりに触れていたいのか、名残惜しむように最後に指の先が触れた後、そのぬくもりは離れていく。

(待って! まだ私貴方の事何も知らない。こんな状態で放置されたら苦しくて息が出来なくなるよ。)

 今彼をこのまま行かせればもう二度と会えなくなる。直感的に感じた叶子は、いてもたっても居られなくなった。

「……イヤ」

 ポツリと呟くが彼は構う事無く彼女に背を向け、歩き出していく。

「何処へ行くの? 私も行く! 置いていかないで!!」

 伸ばした手を何かが邪魔をする。いつの間にか彼女の手首には鉄の鎖が何重にもかけられていて、それを解こうとした所で全くびくともしない。

(待って! お願い!)

 段々と小さくなっていく彼の後姿を夢中で追い求めた。どれだけ引っ張っても手首に巻き付いた鎖はびくともしない。
 彼女の願いも空しく彼の背中に大きな白い羽が姿を現したかと思うと、バサバサッと大きく羽ばたき、再び眩しい光が彼女の目を襲った。

「──! っ……、」

 そして光が収まった頃には既に彼の姿は忽然と消えていたのだった。

「行かないで!」

 彼が消えた途端、自由になった手を目一杯伸ばし夢中で彼を探した。


 ……ルルルル、……プルルルル

 機械的な音が鳴り、彼女がゆっくりと瞼を開けるとそこは真っ暗な自分の部屋。

(彼は何処に行ったのだろう?)

 キョロキョロと辺りを見渡してみても、ここに彼が居ない事に動揺した。

 いつまでも鳴り響く携帯電話。手に取りディスプレイを見てみると彼の名前がそこにあった。
 受話ボタンを押し、恐る恐る声を出す。

「……もしもし」
「あ、もしもし? 僕だけど今日はごめんね」
「今、……何処?」
「え? まだ会社だけど」

「嘘」
「う、嘘じゃないよ!?」

「……。」
「……??」

「どうして私を置いて行ったの?」
「え? いや、急な仕事が入って……、仕方なく?」

「……。」
「??」

「行かないで」
「……っ、」
「お願い。何処にも行かないで……」

「……何処にも行かないよ」

「本当?」
「本当さ、誓うよ」

 彼は何処にも行かない。それを確かめる事が出来ると、叶子は安心しきった表情を浮かべ、そのまま静かに目を閉じた。閉じた眦(まなじり)からは、一筋の涙が頬を伝っている。

「もしもし?」
「・・・…。」

 電話の向こうから叶子の寝息が聞こえている。それを聞いて彼女は眠ってしまったんだなという事が判ると、クスリと微笑みながらジャックは携帯電話をパタンと閉じた。

「……かわいいなぁ」

 今日の昼。彼女とランチタイムを一緒に過ごそうと彼女の家の近くの駅で彼女を待ち伏せた。せっかく会う事が出来たというのに、突然胸元で鳴りだした携帯電話に出てしまったせいで会社に呼び戻された彼は、一緒に過ごせなかった事を詫びる為に電話をした筈だった。
 なのに、詫びるどころか思わぬ拾い物をして自然と顔が緩みだす。その後の仕事が手につかなくなる程、ジャックの頭の中は彼女で一杯になってしまった。