悲しいメロディが、ローサからの三度目のメールを知らせる。




 『えへへ。バレた? 

  メールの回数とか文字数とかで、

  ああ、今日は昨日よりも、
  もっと寂しいんだなって。

  自分でもわかるよ。

  なんて言えば良いのかな? 

  寂しん坊バロメーターだね』




メールは返さなかった。


ローサが、こんなふうに「寂しい」なんてはっきりと言うことは、今までなかった。

絵莉が居なくなったことが影響しているのかもしれない、と思えた。


何人かの友人の顔が思い浮かんだ。

学生のころは、毎日のように顔を合わせていた友人たち。

だけど社会に出ると、それぞれがそれぞれの場所で何かを抱え始めて。

近くに住んでいる友人でさえ、年に数回しか会わない。

“いつでも会える”そんな思いがどこかにあるから、無理に時間をつくったりはしない。


だったら、遠くだろうが、近くだろうが同じではないのか? 

近くに居るという安心感? 

それが大事なのか? 

ただの思い込みじゃないのか? 

たとえば、死んでしまったら? 

僕が死んで、誰か悲しむ? 

誰が悲しむ? 

死んだことを知らなければどう? 


どこかで生きていると思っていれば、悲しくはないだろう。