お兄さんの香りは、知らない香り。

お兄さんの腕は、知らない心地。


けれど見上げれば見える、その瞳に何故か落ち着いた。

お兄さんに、もっともっと笑っていて欲しいと思う。




お兄さんは、目を細め、口の端を緩やかにあげて、見上げるわたしの髪をすいた。




「春の香りがしますね」


春の、香り?


首を傾げると、お兄さんは頷き、わたしの髪を嗅いだ。

すんっとお兄さんの空気を吸う音が、とても近くに聞こえて、なんだかくすぐったい。


わたしは、思わず笑っていた。


笑ったお兄さんは、こんなにも優しい。


こんなにも優しいから、わたし、お兄さんが好き。


めいいっぱい手を伸ばして首に抱きついた。



お母様も大好き。お父様も大好き。
そしてわたしは、お兄さんも大好きになった。




春近さんは、お父様が教職員を務める尋常中学校の、この春に三年生となる生徒さん。

表情の少ない、大きな黒目が印象的な、本当は優しい優しいお兄さん。



その日、春近さんは、本を見ながら、ずっとわたしの手を繋いでくれていた。

桜は、大切に鞄の中にしまってくれた。



「小春さん、」





これが、後の黒騎士と呼ばれた海軍司令官と、ひとりの少女の出会い。


少女は青年に懐き、
青年は少女を溺愛した。



少女は青年を兄と慕い、
青年は、


少女を欲した。






少女は、彼のキスが、苦手。





〈緩やかな笑みを、僕に〉

彼はわたしの唯一のひと、

君と僕は、夫婦だ。