広香は、矢楚に告げた。



「私、行くね」



矢楚は、目を開けて苦しそうに言った。




「送るよ」




広香は首を横に振った。




「さようなら」



広香がそう言って立ち上がったとき。


待って、と矢楚が手を引いた。


広香はよろけ、とっさに矢楚が抱きとめた。



矢楚は胸のなかの広香を、哀しげに、目に焼き付けるように見つめ、

わずかに開いたくちびるで、広香のくちびるをゆっくり覆った。




それは、広香が矢楚にしたキスとは、まったく異なるものだった。



矢楚が頭をわずかに動かすと、広香のくちびるがひらいた。



一瞬で、体の他の部分が消え去って、
口からもたらされる感覚だけが広香の世界の全てになった。



いまや、互いの口こそが魂そのものになり、
交ざりあい、与え合い、分かち合った。




くちびるが離れ、
矢楚の吐息を頬に感じたとき、他の体の感覚も戻った。



広香は目を開けた。
訴えかけるような矢楚の目が、すぐそこにあった。



それを振り切るように、広香は立ちあがった。