引退の理由をこれ迄一度も、本人は口にした事は無いが、事情を知る者の口から、それが伝わり、今では誰もが知ってる事となった。

その理由とは、親栄会の跡目争いに関係しての事だった。

ある事で世話になった義理ある兄貴分を差し置いてまでして、自分は跡目を取りたく無いというのが真相らしい。

この引き際の良さが、尚の事、彼の伝説を大きなものにした。

まだ四十代という、油の乗り切った頃の話しだ。

現在、親栄会のトップに居る連中の殆どが、以前は古森の下に居た連中なのである。

澤村に至っては、現役の頃を知らない。

今は、堅気として、百軒店商店会の世話役的な立場にあるが、裏の世界とは、依然として太いパイプがあり、更には所轄の警察ともツーカーの関係なのである。

百軒店周辺で、裏表関係無く、商売を始めようとするなら、誰もが必ず古森と一度は顔を会わす。

地回りよりも力を持った顔役なのである。

竜治も、カジノのオープンの際には、簡単な挨拶をしに行ったが、面識はそれだけである。

その古森の所から使いが来て、竜治と会って話しがしたいと言って来た。

古森が待っているという中華料理店に行ってみると、案内されたテーブルにヤンも居た。

ヤンとは、カジノでの一件以来、たまに路上で顔を会わす事はあったが、その後特に何事も無かった。

竜治が古森に挨拶をすると、ヤンが立ち上がり、椅子を引いた。

「どうぞ…」

と言って、竜治に頭を下げた。

「ヤンさんの店の料理は本格的なんだが、それ程油っこくなくてね。わしのような年寄りでも大丈夫なんだ。あんた達若い人には物足りなく感じるかも知れんが、味は保証出来るよ。」

この店が、ヤンの店だという事に初めて気が付いた。

奥の厨房から、ヤンが若い女の従業員と一緒に料理を運んで来た。

「神崎さん、うちの料理、ゆっくり味わって下さい。」

「今日は何かお話しがあるという事で伺ったのですが…」

「まあ、話しは食事の後でも出来る事だから、先ずは美味い料理を頂きましょう。」

竜治は、にっこり微笑む古森に、何とも言えぬ重圧を感じ始めていた。