その日の夜、竜治は初めて久美子の店に行った。

深夜の1時を過ぎていた。

電話を掛け、まだ大丈夫でしょうかと聞いてから、タクシーで赤坂にある久美子の店に行った。

店に入ってみて少し驚いた。

竜治が想像していた雰囲気の店とは、大分違っていた。

入ってすぐに眼についたのは、一台のピアノだった。

真上からスポットライトが青白い光りを落とし、そこの部分だけ、まるで一枚の絵画のような趣に見えた。

黒光りするバーカウンター、木目を基調とした内装、壁の間接照明が、セピア色に空間を染めている。
そして何より竜治が驚いたのは、久美子自身が奥のピアノで弾き語りをしていた事である。

客は、テーブル席に三組居た。

竜治の姿に気付いたようで、久美子は軽く微笑んだ。

カウンターに座った。

初老のバーテンが注文を取りに来た。

こういう店では、どういう物を頼んだ方が相応しいのか、竜治には皆目見当がつかなかった。

仕方無く、ビールを頼んだ。

久美子の歌は、竜治の聴いた事の無い、外国の曲であった。
それも、英語ではなく、フランス語のようだった。

久美子の柔らかな声が、程良く抑えられた音色で耳に届いて来る。

歌っている言葉の意味は判らないが、竜治には語りかけられているように感じた。

最後のフレーズをそっと撫でるように弾き、指を滑らした。

余韻がしばしフロアを包んだ。

テーブル席の客達が、パラパラと送る拍手の音で、ハッと我に返った。
竜治も慌てて拍手をした。

「…では、今夜のラスト曲を…」

ゆっくりしたテンポで前奏が始まった。

これも、竜治が初めて聴く曲だった。

歌っている間、久美子は竜治を見つめていた。

少なくとも、竜治にはそう思えた。

曲が終わり、テーブル席の客達が拍手を送りながら立ち上がり、帰り支度を始めた。

久美子は、客一人一人に頭を下げ、見送っていた。

カウンターに一人残った竜治の隣に、久美子が座り、

「さあ、飲もうか。」

と言った。