「さあ、飲も、飲も…」

一時間程してママの店を出た。

道玄坂を下る歩行者に酔客が多くなった。

ハチ公前の交差点に来た時、スターバックスが目に入った。

竜治の言葉を思い出した。

(俺、この場所で珈琲を飲みながら、外の景色を眺めるのが好きだったんだ。

何だか、自分がこの街の王様になれたような気分になるんだ。

笑うなよ……)

久美子はタクシーを止め、赤坂へと運転手に告げた。



赤坂の店は、老バーテンダーに譲っていた。

店の名前も、ドアの造りも、久美子の時と変わっていない。

たった一年…なのに随分と懐かしく思えた。

気持ちを整えて、ドアに手を掛けた。

何組かの客が入っていた。

店内も全然変わっていない。

ピアノもそのままだ。

カウンターに近付くと、老いたバーテンダーが久美子にだけ判るように微笑んだ。

「マスター…」

「マスターだなんて…久美子さん…お帰りなさい。」

「お願いがあるんだけど…」

「何でしょうか?」

「ピアノ…弾いても構わない?」

バーテンダーはこれ以上無い笑顔を見せて頷いた。

左手をピアノの方へ向け、

「どうぞ。」

と言った。

ピアノの蓋を開け、そっと鍵盤に触れた。

椅子に座り、思いつくまま弾き始めた。

ふと手が止まり、思い直したように久美子は喋り始めた。

「私が、一番大切に想っていた二人の人に送る曲です。……デスペラード…」

店の中に哀愁を帯びたピアノの旋律が流れ、久美子の声がゆっくりとその音に乗って行く……

煙草の煙りと酒の匂いにまぎれ、客達の取り留めの無い会話が、ぽとり、ぽとりと床に落ちて行った。