エングラム




少し想像して笑った。

「ケイのベース、また聴けますよね」

「当たり前だろ」

シイが直ぐに答えた。


本人が味わっている絶望も知らず、その答えに少し嬉しくなる。


タクシーが駅まで着くと、シイに料金を払ってもらい下りた。

「すみません」

そう軽く頭を下げると、

「体で払ってもらうから良いって。気にすんな」

いや気にしますって。
突っ込めず、赤くなっただけだった。

「さてと、楽器取り行くか」

その言葉で、慣れた道を通り廃ビルへ向かう。

──少し、暑く。もう夏の夕方だった。

「オレんち寄ってったら帰り遅くなりそうだな」

灰色の。埃が舞う階段を上りながらシイが言った。

「あー…そうですね」

残念に思いながら、表情には出さず続ける。

「じゃあまたいつか、寄らせてくださいね」

行きたかったけれど。
それを表情に出さず笑いかけると、シイがくっくと笑い声を漏らした。

「え?」

「お前なあ」

階段を上り終えて、シイが私の顔を見ながら言う。
自信満々な笑みで。

「オレには分かるんだって。──来いよ」

置きっぱなしだったベースを手に取った。

「泊まれば良いだろ」


手に取った忘れ物を、落としそうになってしまった。