その夜、私は眠れなかった。
平熱の身体は、正直すぎる。言い訳になる熱も、だるさも、もうどこにもない。
一時を過ぎたころ、水を飲みにリビングへ行くと、電気はついていなかった。
消えているのに部屋は明るくて、壁一面の窓から東京の光が入ってくる。
その光を背にして、彼がソファに座っていた。
背もたれに体を預けて、片手にグラスを持って、ただ夜景を見ている。
パーカーで、髪は下りていて。
――やっぱり知らない人みたい。
「……眠れないんですか?」
声をかけると、ゆっくりとこちらに視線を向けられる。
「お前もか」
「はい」
少しだけ距離を空けて隣に立つと、しばらく二人とも黙って夜景を見ていた。
「副社長、って」
「なんだ」
「あ、いえ。なんでもないです」
呼んでみたかっただけだった。口に出す勇気はなかった。
それ以上、追及はされなかった。
代わりに、グラスを置いて、こう言った。
「ムギの話の続きだが」
「えっ!?」
私は、思わず彼のほうを向いた。
「聞きたいです」
「……そんなに食いつくものか」
「食いつきます」
少し呆れたように息を吐くと、ぽつぽつと話し出す。
ムギは十七年生きたこと。
最後の年は目が見えなくなって、それでも彼の足音だけは聞き分けたこと。
彼が留学に出る前の日に死んだこと。
「見計らったみたいだった」
「……」
「泣かなかった。泣く余裕がなかった」
私は、何も言えなかった。
「あの頃、親父が倒れていた」
「社長が……」
夜景を見たまま、話は続いた。
「十四のときだ。株が動いた。会社が揺れた。周りの大人が、俺の顔色を毎日見ていた。何を考えているか読まれると、数字が動く」
――ああ。
「だから、やめた」
「やめたって、何を」
「顔に出すのを」
あまりにあっさりしていて、私は胸の奥を掴まれたような気がした。
この人が無表情なのは、冷たいからじゃない。
そうしないと生きてこられなかったからだ。
二十年、ずっと。
「……しんどくないですか」
「慣れた」
「慣れちゃだめです」
言ってしまってから、生意気だったかと思った。
けれど、怒られることはなかった。
しばらく黙って、それから、小さく息を吐いた。
「……そうかもしれないな」
窓の光がその横顔を、下ろした前髪の影を揺らす。
好きだ、と再確認したと同時に、言えるわけがない、とも改めて思った。
明日の朝、私はここを出る。
この人は副社長で、私は社員で、この一週間は、ただの事故みたいなものだ。
全部、元に戻る。
――戻らないのは、私の中身だけ。
平熱の身体は、正直すぎる。言い訳になる熱も、だるさも、もうどこにもない。
一時を過ぎたころ、水を飲みにリビングへ行くと、電気はついていなかった。
消えているのに部屋は明るくて、壁一面の窓から東京の光が入ってくる。
その光を背にして、彼がソファに座っていた。
背もたれに体を預けて、片手にグラスを持って、ただ夜景を見ている。
パーカーで、髪は下りていて。
――やっぱり知らない人みたい。
「……眠れないんですか?」
声をかけると、ゆっくりとこちらに視線を向けられる。
「お前もか」
「はい」
少しだけ距離を空けて隣に立つと、しばらく二人とも黙って夜景を見ていた。
「副社長、って」
「なんだ」
「あ、いえ。なんでもないです」
呼んでみたかっただけだった。口に出す勇気はなかった。
それ以上、追及はされなかった。
代わりに、グラスを置いて、こう言った。
「ムギの話の続きだが」
「えっ!?」
私は、思わず彼のほうを向いた。
「聞きたいです」
「……そんなに食いつくものか」
「食いつきます」
少し呆れたように息を吐くと、ぽつぽつと話し出す。
ムギは十七年生きたこと。
最後の年は目が見えなくなって、それでも彼の足音だけは聞き分けたこと。
彼が留学に出る前の日に死んだこと。
「見計らったみたいだった」
「……」
「泣かなかった。泣く余裕がなかった」
私は、何も言えなかった。
「あの頃、親父が倒れていた」
「社長が……」
夜景を見たまま、話は続いた。
「十四のときだ。株が動いた。会社が揺れた。周りの大人が、俺の顔色を毎日見ていた。何を考えているか読まれると、数字が動く」
――ああ。
「だから、やめた」
「やめたって、何を」
「顔に出すのを」
あまりにあっさりしていて、私は胸の奥を掴まれたような気がした。
この人が無表情なのは、冷たいからじゃない。
そうしないと生きてこられなかったからだ。
二十年、ずっと。
「……しんどくないですか」
「慣れた」
「慣れちゃだめです」
言ってしまってから、生意気だったかと思った。
けれど、怒られることはなかった。
しばらく黙って、それから、小さく息を吐いた。
「……そうかもしれないな」
窓の光がその横顔を、下ろした前髪の影を揺らす。
好きだ、と再確認したと同時に、言えるわけがない、とも改めて思った。
明日の朝、私はここを出る。
この人は副社長で、私は社員で、この一週間は、ただの事故みたいなものだ。
全部、元に戻る。
――戻らないのは、私の中身だけ。



