『飛鳥の皇子は、私の“残業”を許さない』


2.渡来人エンジニアのプライド


数分後、執務室の土間にやってきたのは、浅黒い肌に鋭い眼光を持った青年、秦のタクマだった。

彼は大陸にルーツを持つ高名な技術者集団「秦氏(はたうじ)」の若きエリートで、宮廷の織物工場の現場監督(リードエンジニア)を務めている。


「皇子、何度計算し直しても、俺たちの見積もりは完璧です」

タクマは土間に膝をつきながらも、その声には強いプライドが滲んでいた。

「俺たちは、大陸から伝わった最新の計算具『算木(さんぎ)』を完璧に使いこなしています。縦横に並べた赤い棒と黒い棒の配置に、間違いは一切ありません。隋の図面通りに織れば、我が国の壁には三尺分、余る計算になります。これ以上の減額や納期の短縮を迫るなら、職人たちの命が持ちません」


「算木」、それは当時の最高峰の計算デバイスだ。

碁盤のようなマス目の上に、四角い木の棒を並べて数字を表し、加減乗除を行う。現代で言えば、エクセルや関数電卓のようなものだ。


「……ふむ」

厩戸皇子は目を閉じ、タクマの声の周波数を探るように耳の後ろの髪を触った。

「タクマ。お前の声に『嘘の震え』は一切ないな。お前は本気で、自分の計算が正しいと信じ込んでいる」


「当然です!」


「だが」と、皇子は切れ長な瞳を冷たく見開いた。

「僕の豊聡耳(とよとみみ)が、隋の使者の言葉を聞いたとき、彼らの声にもまた『嘘』はなかった。どちらも正しいと主張し、しかし結果(データ)が食い違っている。……依、これをお前の言う『システムエラー』と呼ぶのだろう?」


「ええ、その通りです。お互いに悪気がないのに、なぜか数字が合わない。……こういうときは、ツール(算木)の限界か、あるいは入力データの見落としを疑うのがセオリーです」


私は一歩前に出ると、タクマの前にしゃがみ込んだ。

「タクマさん、その自信満々の『算木』の計算、私に最初から見せてもらえますか?」


「ハッ、采女の小娘に算木が読めるのか? これは高度な大陸の数学(算術)を修めた者しか扱えないんだぞ」

「舐めないでください。私は前世で、億単位の国家予算システムの要件定義をやってきた女です。棒を並べるパズルくらい、一瞬でデバッグしてみせますから」