「……これだ」
低い声に、美桜は身を乗り出した。
数学のノート。
その後ろのほう、ふだんの授業内容とは関係ないページに、細かい字でいくつものメモが書かれていた。
「これ、授業のノートじゃ……」
「違う」
悠真は短く答えた。
ページの端には日付。
その下には、簡潔な文章がいくつも並んでいる。
校舎裏の階段。
放課後。
手すりの破損。
落下。
目撃証言なし。
美桜の指先がわずかに震えた。
「事故……?」
「三年前、この学校で起きた」
悠真の声は静かだった。
けれど、その静けさがかえって重い。
「当時、中等部にいた男子生徒が階段から落ちて、大けがをした」
「そんなことがあったの……?」
「表向きは、ただの転落事故として処理された」
ノートのページには、さらにいくつかの書き込みがあった。
当日の天候。
現場を最初に見つけた教師の名前。
壊れていた手すりの位置。
そして、最後に強く書かれた一文。
事故にしては不自然な点が多い。
美桜は息をのんだ。
「久世城くん、これ……調べてたの?」
「ずっと前から少しずつな」
「どうして」
その問いかけに、悠真はしばらく黙った。
教室の時計の音だけが、やけに大きく響く。
やがて悠真は、ノートに視線を落としたまま言った。
「その事故にあったの、俺の兄だ」
美桜の胸が大きく揺れた。
「……え」
「兄は助かった。でも、しばらく学校に来られなくなった」
夕日の色が、悠真の横顔を赤く染める。
なのにその表情は、ひどく冷たく見えた。冷たいというより、感情を押し込めているようだった。
「まわりは事故だって言った。証拠もないし、そう片づけるしかなかった」
悠真の指先が、ノートの端をわずかに強く押さえる。
「でも俺は、ずっと違和感があった」
「だから、調べてたんだ……」
「……ああ」
美桜は言葉を失った。
今までの悠真の落ち着きや、観察眼の鋭さ。
事件に対する妙な慣れ。
全部、ただ頭がいいからじゃなかった。ずっとひとつの真相を追っていたからだった。
「じゃあ、今の事件も……」
「たぶん無関係じゃない」
悠真はページを一枚めくる。
そこには、新しく乱れた跡があった。誰かが急いで見たように、端が少し折れている。
「犯人はこのノートの中から、事故のことが書かれたページを探してた」
「どうしてそんなものを」
「消したいのか、確かめたいのかはまだ分からない」
その声は冷静なのに、美桜には分かった。
悠真は今、たぶん心の中で強く揺れている。
自分の兄の事故。
長く追い続けてきた真相。
それに誰かが触れたのだ。平気なはずがない。
「久世城くん」
気づけば、美桜はそう呼んでいた。
悠真が顔を上げる。
「ひとりで抱えなくていいよ」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、今いちばん伝えたいことはそれだった。
「わたし、ちゃんと力になる」
まっすぐ見つめると、悠真は少しだけ目を見開いた。
「春宮……」
「わたし、推理はまだ全然すごくないし、久世城くんみたいに冷静でもないけど」
一度息を吸って、美桜は続ける。
「でも、知ってしまった以上、何もなかったことにはしたくない」
教室に沈黙が落ちる。
長い数秒のあと、悠真はふっと目を伏せた。
それから、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「……変なやつ」
「ひどい」
「褒めてる」
ぶっきらぼうなのに、その声は前よりずっとやわらかかった。
「普通は怖がって離れる」
「わたしは普通じゃないのかも」
「かもな」
そう言って悠真は、ノートを閉じた。
そして次の瞬間、美桜の頭の上にそっと手がのる。
「え……」
「無理はするな」
低い声。
手のひらは一瞬だけだったのに、熱がそこに残った気がした。
「危ないと思ったら、ちゃんと俺の後ろにいろ」
心臓が一気に跳ね上がる。
「そ、それって……」
「守るって意味だ」
さらりと言われてしまって、美桜はもう何も返せない。
悠真はそんな美桜を見て、ほんの少しだけ困ったように目を細めた。
「そんな顔するな」
「だって……急にそんなこと言うから」
「事実だ」
ずるい。
こんなにまっすぐ言われたら、意識しないほうが無理だった。
そのとき、不意に教室の扉がかすかに鳴った。
悠真の表情がすぐに引き締まる。
ふたりが同時に振り向くと、廊下にはもう誰の姿もなかった。
「……聞かれてたかもしれない」
悠真が低く言う。
美桜はぎゅっと息をのんだ。
「犯人?」
「たぶんな」
放課後の静かな教室に、緊張が張りつめる。
三年前の事故。
悠真の兄。
そして、それを調べるノートを探る誰か。
小さな盗難事件だと思っていたものは、もう完全に別の顔を見せはじめていた。
低い声に、美桜は身を乗り出した。
数学のノート。
その後ろのほう、ふだんの授業内容とは関係ないページに、細かい字でいくつものメモが書かれていた。
「これ、授業のノートじゃ……」
「違う」
悠真は短く答えた。
ページの端には日付。
その下には、簡潔な文章がいくつも並んでいる。
校舎裏の階段。
放課後。
手すりの破損。
落下。
目撃証言なし。
美桜の指先がわずかに震えた。
「事故……?」
「三年前、この学校で起きた」
悠真の声は静かだった。
けれど、その静けさがかえって重い。
「当時、中等部にいた男子生徒が階段から落ちて、大けがをした」
「そんなことがあったの……?」
「表向きは、ただの転落事故として処理された」
ノートのページには、さらにいくつかの書き込みがあった。
当日の天候。
現場を最初に見つけた教師の名前。
壊れていた手すりの位置。
そして、最後に強く書かれた一文。
事故にしては不自然な点が多い。
美桜は息をのんだ。
「久世城くん、これ……調べてたの?」
「ずっと前から少しずつな」
「どうして」
その問いかけに、悠真はしばらく黙った。
教室の時計の音だけが、やけに大きく響く。
やがて悠真は、ノートに視線を落としたまま言った。
「その事故にあったの、俺の兄だ」
美桜の胸が大きく揺れた。
「……え」
「兄は助かった。でも、しばらく学校に来られなくなった」
夕日の色が、悠真の横顔を赤く染める。
なのにその表情は、ひどく冷たく見えた。冷たいというより、感情を押し込めているようだった。
「まわりは事故だって言った。証拠もないし、そう片づけるしかなかった」
悠真の指先が、ノートの端をわずかに強く押さえる。
「でも俺は、ずっと違和感があった」
「だから、調べてたんだ……」
「……ああ」
美桜は言葉を失った。
今までの悠真の落ち着きや、観察眼の鋭さ。
事件に対する妙な慣れ。
全部、ただ頭がいいからじゃなかった。ずっとひとつの真相を追っていたからだった。
「じゃあ、今の事件も……」
「たぶん無関係じゃない」
悠真はページを一枚めくる。
そこには、新しく乱れた跡があった。誰かが急いで見たように、端が少し折れている。
「犯人はこのノートの中から、事故のことが書かれたページを探してた」
「どうしてそんなものを」
「消したいのか、確かめたいのかはまだ分からない」
その声は冷静なのに、美桜には分かった。
悠真は今、たぶん心の中で強く揺れている。
自分の兄の事故。
長く追い続けてきた真相。
それに誰かが触れたのだ。平気なはずがない。
「久世城くん」
気づけば、美桜はそう呼んでいた。
悠真が顔を上げる。
「ひとりで抱えなくていいよ」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、今いちばん伝えたいことはそれだった。
「わたし、ちゃんと力になる」
まっすぐ見つめると、悠真は少しだけ目を見開いた。
「春宮……」
「わたし、推理はまだ全然すごくないし、久世城くんみたいに冷静でもないけど」
一度息を吸って、美桜は続ける。
「でも、知ってしまった以上、何もなかったことにはしたくない」
教室に沈黙が落ちる。
長い数秒のあと、悠真はふっと目を伏せた。
それから、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「……変なやつ」
「ひどい」
「褒めてる」
ぶっきらぼうなのに、その声は前よりずっとやわらかかった。
「普通は怖がって離れる」
「わたしは普通じゃないのかも」
「かもな」
そう言って悠真は、ノートを閉じた。
そして次の瞬間、美桜の頭の上にそっと手がのる。
「え……」
「無理はするな」
低い声。
手のひらは一瞬だけだったのに、熱がそこに残った気がした。
「危ないと思ったら、ちゃんと俺の後ろにいろ」
心臓が一気に跳ね上がる。
「そ、それって……」
「守るって意味だ」
さらりと言われてしまって、美桜はもう何も返せない。
悠真はそんな美桜を見て、ほんの少しだけ困ったように目を細めた。
「そんな顔するな」
「だって……急にそんなこと言うから」
「事実だ」
ずるい。
こんなにまっすぐ言われたら、意識しないほうが無理だった。
そのとき、不意に教室の扉がかすかに鳴った。
悠真の表情がすぐに引き締まる。
ふたりが同時に振り向くと、廊下にはもう誰の姿もなかった。
「……聞かれてたかもしれない」
悠真が低く言う。
美桜はぎゅっと息をのんだ。
「犯人?」
「たぶんな」
放課後の静かな教室に、緊張が張りつめる。
三年前の事故。
悠真の兄。
そして、それを調べるノートを探る誰か。
小さな盗難事件だと思っていたものは、もう完全に別の顔を見せはじめていた。



