氷の君に、恋の歌を。

文化祭の準備が本格的に始まってから、乃愛の毎日は少しずつ変わっていった。

授業が終われば音楽室へ向かう。
蓮斗のピアノに合わせて歌う。
最初は震えていた声も、今では一曲を通して歌える日が増えてきた。

「今日の高音、よかった」

練習の終わり、蓮斗が楽譜を閉じながら言う。

「ほんと?」

「ああ。前より力が抜けてる」

まっすぐ褒められて、乃愛の頬が少し熱くなる。
蓮斗は相変わらず表情が薄いのに、こういうときだけ言葉が甘い。

「……蓮斗くんって、たまに先生みたい」

「たまに?」

「いつもは冷たいから」

「乃愛には冷たくしてない」

さらっと返されて、乃愛は言葉に詰まった。

それって特別ってことなのかな。
そう思った瞬間、心臓がうるさくなる。

そのとき、音楽室のドアががらっと開いた。

「やっぱりここだった」

明るい声とともに入ってきたのは、ひとりの男子生徒だった。
少し明るめの髪に、人懐っこい笑顔。制服の着こなしもどこか軽やかで、いかにも話しかけやすそうな雰囲気をまとっている。

「二年三組の朝比奈悠真。森下さん、だよね?」

突然名前を呼ばれて、乃愛は目を丸くした。

「え……はい」

「やっぱり。最近うわさになってるよ。すごく可愛い転校生が、放課後いつも音楽室にいるって」

にこっと笑いながら近づいてくる悠真に、乃愛は少したじろぐ。
距離が近い。
蓮斗とは違う意味で、どきどきしてしまうタイプだ。

「それで、ちょっと用があってさ」

悠真は乃愛を見て、楽しそうに続けた。

「うちのクラス、文化祭でバンドやるんだけど、ボーカルが急に出られなくなって困ってるんだ。森下さん、手伝ってくれない?」

「えっ……!?」

一瞬で顔がこわばる。
ついこの前まで、人前で歌うことすら無理だったのに。
そんな大役、できるわけがない。

「ご、ごめんなさい。私、まだ……」

断ろうとしたそのときだった。

「無理だ」

低い声が、乃愛の前に割って入る。

見ると、蓮斗が立ち上がっていた。
そのまま乃愛の少し前に立つ。

「森下はうちのクラスのステージに出る予定だ」

「へえ?」

悠真が面白そうに目を細める。

「一宮くんって、そんなふうに他人の予定まで決めるタイプなんだ」

「決めてない。守ってるだけだ」

その言い方に、乃愛の心臓が強く跳ねた。

守ってる。
その言葉が、まるで自分だけ特別みたいに聞こえてしまう。