氷の君に、恋の歌を。

その日から、放課後の特訓が始まった。

誰もいない音楽室。
ピアノを弾く蓮斗。
その音に合わせて歌う乃愛。

最初は一曲を通すこともできなかったのに、少しずつ声は安定していった。
失敗しても、蓮斗は決して笑わない。
できたところはきちんと認めてくれる。

その積み重ねが、乃愛にはうれしかった。

そしてもうひとつ、困ることがある。
毎日一緒にいるせいで、どんどん蓮斗を意識してしまうことだ。

楽譜をのぞきこむ距離。
ふいに触れそうになる指先。
名前を呼ばれるたびに、胸の奥が甘くざわめく。

特訓が始まって一週間。
帰り際、蓮斗は楽譜を閉じながら言った。

「今日の乃愛、昨日よりずっとよかった」

不意に名前で呼ばれて、乃愛はぴたりと動きを止める。

「い、今さらっと乃愛って……」

「前に許可もらった」

「そうだけど……慣れてないの」

「じゃあ慣れろ」

いつも通りそっけない言い方。
なのに、そのあとで少しだけやわらかい声になる。

「俺は、うれしいから」

「え……?」

「名前で呼べるの」

心臓が、ほんの一瞬止まった気がした。

言葉を失う乃愛に、蓮斗は鞄を持って歩き出す。
その背中を見つめながら、乃愛は頬を押さえた。

もう無理。
好きにならないようにするなんて、きっと最初からできなかった。

文化祭まで、あと三週間。
特訓はまだ始まったばかり。
けれど乃愛は気づいてしまう。

取り戻したいのは、歌声だけじゃない。
本当にほしいのは、この人と並んで立てる勇気なのだと。

そして蓮斗もまた、静かに変わり始めていた。
誰にも興味がないと思われていた完璧な彼が、乃愛の声ひとつで感情を揺らしていることを、まだ本人だけが知らない。

恋は、秘密の特訓の中で少しずつ育っていく。
文化祭のステージが近づくたびに、ふたりの距離もまた、戻れないほど近づいていった。