氷の君に、恋の歌を。

放課後の音楽室は、夕日の色に染まっていた。
窓から差しこむやわらかな光の中で、蓮斗はピアノの前に座っている。

その姿を見ただけで、乃愛の胸がどきりとした。

制服姿で鍵盤に指を置く横顔は、いつも以上に整って見える。
本当に、なんでもできてしまいそうだ。

「来たか」

「う、うん」

乃愛は緊張しながら中へ入る。
音楽室のドアが閉まる音がして、急にふたりきりだと意識してしまう。

「そこ座って」

蓮斗がピアノのそばの椅子を引いてくれる。
その自然な仕草だけで、また鼓動が速くなった。

「まずは、人前で歌うんじゃなくて、俺の前で声を出すところからでいい」

「蓮斗くんの前っていうのも、十分緊張するんだけど……」

本音がこぼれると、蓮斗は一瞬だけ手を止めた。

「なんで」

「なんでって……」

そんなの、本人に言えるわけがない。

かっこいいし。
優しいし。
近いと落ち着かないし。

乃愛が視線を泳がせていると、蓮斗は小さく息を吐いた。

「じゃあ、俺は窓のほう見てる」

「え?」

「見られてると歌いにくいんだろ」

そう言って、本当にピアノごと少し身体の向きを変える。
その不器用なくらいの気づかいに、乃愛は胸がいっぱいになった。

「……ありがとう」

「礼は、歌えたらでいい」

静かな空気の中、乃愛はゆっくり息を吸う。

大丈夫。
ここには、笑う人はいない。
責める人もいない。

いるのは、信じてくれる人だけ。

震える声で、最初の一音を出す。
かすれて、思うようには響かない。
それでも蓮斗は止めなかった。

「もう一回」

短い声。
責める響きはない。
ただ、ちゃんと待ってくれている。

乃愛はもう一度歌う。
さっきより少しだけ長く。
少しだけ、まっすぐに。

何度か繰り返すうちに、少しずつ声がほどけていくのがわかった。
忘れかけていた感覚が、胸の奥から戻ってくる。

すると、ピアノの音がそっと重なった。

乃愛は驚いて顔を上げる。
蓮斗が、やさしい指づかいで伴奏をつけていた。

乃愛の声を包むような、静かであたたかな音。

「続けて」

低く促されて、乃愛はうなずく。
歌う。
ピアノが寄り添う。
それだけなのに、涙が出そうになる。

ひとりじゃない。
そう思えたから。

歌い終わると、音楽室はしんと静まり返った。
夕日だけが、ふたりをやわらかく照らしている。

「……どうだった?」

怖くてたまらないまま尋ねると、蓮斗は振り向いた。

その瞳は、まっすぐ乃愛だけを見ている。

「やっぱり、きれいだ」

また、それだ。
けれど今度は、胸の奥が痛いほど熱くなった。

「蓮斗くん、それしか言えないの?」

半分照れ隠しで言うと、彼は少しだけ考えるように目を伏せたあと、静かに続けた。

「じゃあ訂正する」

「え?」

「すごくきれいで、たぶん誰よりも心に残る声だ」

言われた瞬間、乃愛の頬が一気に赤くなる。
もうだめだった。
こんなの、ときめかないほうが無理だ。

「……そんなこと言われたら、逃げられなくなるよ」

乃愛が小さくつぶやくと、蓮斗は椅子から立ち上がる。

そして、乃愛の前まで来ると、少しかがんで目線を合わせた。

「最初から逃がす気ない」

息が止まりそうになる。

近い。
近すぎる。
涼しげな顔のくせに、言葉は熱すぎる。

「文化祭まで、毎日付き合う」

「毎日……?」

「嫌か」

そんなふうに真顔で聞かれたら、嫌だなんて答えられない。

乃愛は視線をそらしながら、かすかに首を振った。

「……嫌じゃない」

「なら決まりだ」

ほんの少しだけ、蓮斗が笑う。
その笑顔はまだ控えめなのに、乃愛の心を揺らすには十分だった。