部屋の空気が、わずかに変わった。
「製錬所」
「山で採れた鉱石を、船で運んで処理しております。王都へ金属を供給する重要施設ですわ」
「排水は?」
「規定どおり処理していると、報告は受けております」
マリエッタの言い方には、含みがあった。
「報告は、な」
「ええ。報告は」
セルキアが顔を上げた。
「殿下。私、確かめに行きます」
「危険だ」
「でも、匂いを追えるのは私だけです」
まっすぐな目。
八歳の頃、岩場の子アザラシを言い当てたときと同じ目。
しばらく黙っていた。
「……条件がある」
「はい!」
「単独では潜らない。必ず俺と職員が同行する。潜る時間も、俺が決める」
「はい!」
「それから」
レオニスは、セルキアの前に膝をついて視線を合わせた。
「少しでも身体に異変を感じたら、すぐ上がれ。何も見つからなくてもいい。君の命のほうが重い」
目を丸くし、それから小さく頷いた。
「……はい」
翌朝、調査隊が組まれた。
小舟が三艘、北湾の入口へ向かう。空は曇り、海面は鈍い灰色をしていた。
「殿下。このあたりから、匂いが強くなります」
舟の縁に手をかけ、セルキアが告げる。
「潜れそうか」
「はい」
上着を脱ぎ、簡素な水着姿になった。腰には命綱が結ばれている。
「三十数える間だけだ。それを過ぎたら引き上げる」
「三十では短いです!」
「五十まで待つ。それ以上は認めない」
「はぁい……」
「もう一つ」
レオニスが小さな革袋を差し出した。中には水筒が入っている。
「上がったら、必ず口をすすげ。飲み込むな。それから真水で全身を洗う」
「なぜですか?」
「海底に何があるか、まだわからない。アザラシは平気でも、君の身体は人間のものだ」
水筒を見つめ、それから素直に頷いた。
「……はい」
「返事が短いな」
「口をすすぐの、苦手なのです」
「我慢しなさい」
「はぁい……」
水しぶきが上がり、白い身体が海中へ消えた。
綱を握りしめ、水面を見つめる。
――一、二、三。
数を数えるたび、心臓が鳴った。
六年前、幼いセルキアが波間へ消えたときと同じ感覚だった。
――三十。三十二。四十。
「殿下、そろそろ」
「まだだ」
――四十八、四十九。
水面が割れた。
「殿下!」
息を吐きながら浮上したセルキアの手には、黒く変色した海藻の塊が握られていた。
「引き上げろ!」
舟へ上がったセルキアの口元へ、レオニスがすぐ水筒を差し出す。
言われたとおり、三度すすいで海へ吐いた。
「もう一度」
「もうしました!」
「もう一度だ」
四度目をすすぎ終えてから、ようやく毛布に包まれる。
「底のほうです。岩に、白いものが積もっていました。海藻が枯れて、貝も死んでいます」
「魚は?」
「一匹もいませんでした。あんなに静かな海は、初めてです」
セルキアの声が震えていた。寒さのせいだけではなかった。
「海が、黙っています」
持ち帰った海藻と海底の泥は、その日のうちに王立学院へ送られた。
結果が出るまでの三日間、レオニスは保護院に留まった。
「殿下がこちらに滞在されるのは、異例ですわね」
マリエッタが茶を運びながら言う。
「王宮にいても、できることがない」
「政務は?」
「書類は運ばせている。判は、どこでも押せる」
窓の外では、セルキアがプールの縁にしゃがみ込んでいた。
弱ったアザラシの様子を、一頭ずつ記録している。
「あの子、昨日から三時間しか眠っておりませんわ」
「止めなかったのか」
「止めましたわ。三度ほど」
肩をすくめた。
「『まだ書けます』と言って聞かないのです。誰かに似ておりますわね」
答えなかった。
三日目の夕刻、早馬が到着した。
王立学院からの報告書には、こう記されていた。
『海の底から、普通では考えられないほど多くの金属を検出。海藻や貝が死んでいる原因である可能性が高い』
「……製錬所か」
レオニスの声は低かった。
「殿下。ですが、これだけで製錬所のせいだと決めることはできませんわ」
マリエッタが冷静に指摘する。
「排水が原因だという直接の証拠がありません。先方は必ず『上流の鉱山から自然に流れ出たものだ』と主張しますわ」
「その通りだ。だから、経路を押さえる」
地図を広げた。
「セルキアは、匂いが北湾の奥へ行くほど強くなると言った。ならば、源は湾の最奥にある」
「製錬所の排水口ですわね」
「排水口の近くから、少しずつ離れながら泥を集める。遠ざかるほど金属が減っていくなら、そこから流れ出たと示せる」
その夜、セルキアがランプを手に事務室へやってきた。
「殿下。まだ起きていらしたのですか」
「君こそ」
「私は、思いついたことがありまして」
机に自分の記録帳を広げた。細かい字で、日付と観察が並んでいる。
「弱った子たちですが、みんな同じ場所で餌を探していたのだと思います」
「なぜわかる」
「胃の中に残っていたものです。獣医さまに聞いて、書き留めました」
ページをめくると、そこにはアザラシたちが何を食べていたか、細かく書かれていた。
「元気な子は、いろいろな魚を食べています。でも、弱った子は、砂に潜る貝や、底にいる魚ばかりです」
「……底の生き物を食べている」
「はい。毒が積もっているのは、海の底です」
思わず息を止めた。
海の上のほうを泳ぐ魚を食べていた子は元気だ。
なのに、海の底にいる貝や魚を食べた子だけが弱っている。
毒のようなものは、海の底にたまっているのかもしれない。
「セルキア。これを、いつからつけていた」
「二か月前です。おかしいと思ったので」
二か月前――誰も異変に気づいていなかった頃だ。
「君は、なぜ報告しなかった」
「証拠が足りませんでした」
まっすぐレオニスを見上げた。
「マリエッタ様が教えてくださいました。『あなたにしかわからないままでは、何も残りません』と。だから、数を集めていました」
思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「殿下?」
「いや。君が、俺の想像よりずっと先を歩いていたことが、嬉しい」
セルキアの頬が、ほんのり赤くなる。
「あの、殿下」
「何だ」
「これは、人間にも関わりますか」
その問いに、レオニスの表情が引き締まった。
「ああ」
「やはり、そうですか」
「海底の生き物を食べるのは、アザラシだけではない。貝も、底魚も、人が食べる」
セルキアの顔から血の気が引いた。
「では、漁師の方々は……」
「今すぐ調べる。明日の朝、村へ行く」
「製錬所」
「山で採れた鉱石を、船で運んで処理しております。王都へ金属を供給する重要施設ですわ」
「排水は?」
「規定どおり処理していると、報告は受けております」
マリエッタの言い方には、含みがあった。
「報告は、な」
「ええ。報告は」
セルキアが顔を上げた。
「殿下。私、確かめに行きます」
「危険だ」
「でも、匂いを追えるのは私だけです」
まっすぐな目。
八歳の頃、岩場の子アザラシを言い当てたときと同じ目。
しばらく黙っていた。
「……条件がある」
「はい!」
「単独では潜らない。必ず俺と職員が同行する。潜る時間も、俺が決める」
「はい!」
「それから」
レオニスは、セルキアの前に膝をついて視線を合わせた。
「少しでも身体に異変を感じたら、すぐ上がれ。何も見つからなくてもいい。君の命のほうが重い」
目を丸くし、それから小さく頷いた。
「……はい」
翌朝、調査隊が組まれた。
小舟が三艘、北湾の入口へ向かう。空は曇り、海面は鈍い灰色をしていた。
「殿下。このあたりから、匂いが強くなります」
舟の縁に手をかけ、セルキアが告げる。
「潜れそうか」
「はい」
上着を脱ぎ、簡素な水着姿になった。腰には命綱が結ばれている。
「三十数える間だけだ。それを過ぎたら引き上げる」
「三十では短いです!」
「五十まで待つ。それ以上は認めない」
「はぁい……」
「もう一つ」
レオニスが小さな革袋を差し出した。中には水筒が入っている。
「上がったら、必ず口をすすげ。飲み込むな。それから真水で全身を洗う」
「なぜですか?」
「海底に何があるか、まだわからない。アザラシは平気でも、君の身体は人間のものだ」
水筒を見つめ、それから素直に頷いた。
「……はい」
「返事が短いな」
「口をすすぐの、苦手なのです」
「我慢しなさい」
「はぁい……」
水しぶきが上がり、白い身体が海中へ消えた。
綱を握りしめ、水面を見つめる。
――一、二、三。
数を数えるたび、心臓が鳴った。
六年前、幼いセルキアが波間へ消えたときと同じ感覚だった。
――三十。三十二。四十。
「殿下、そろそろ」
「まだだ」
――四十八、四十九。
水面が割れた。
「殿下!」
息を吐きながら浮上したセルキアの手には、黒く変色した海藻の塊が握られていた。
「引き上げろ!」
舟へ上がったセルキアの口元へ、レオニスがすぐ水筒を差し出す。
言われたとおり、三度すすいで海へ吐いた。
「もう一度」
「もうしました!」
「もう一度だ」
四度目をすすぎ終えてから、ようやく毛布に包まれる。
「底のほうです。岩に、白いものが積もっていました。海藻が枯れて、貝も死んでいます」
「魚は?」
「一匹もいませんでした。あんなに静かな海は、初めてです」
セルキアの声が震えていた。寒さのせいだけではなかった。
「海が、黙っています」
持ち帰った海藻と海底の泥は、その日のうちに王立学院へ送られた。
結果が出るまでの三日間、レオニスは保護院に留まった。
「殿下がこちらに滞在されるのは、異例ですわね」
マリエッタが茶を運びながら言う。
「王宮にいても、できることがない」
「政務は?」
「書類は運ばせている。判は、どこでも押せる」
窓の外では、セルキアがプールの縁にしゃがみ込んでいた。
弱ったアザラシの様子を、一頭ずつ記録している。
「あの子、昨日から三時間しか眠っておりませんわ」
「止めなかったのか」
「止めましたわ。三度ほど」
肩をすくめた。
「『まだ書けます』と言って聞かないのです。誰かに似ておりますわね」
答えなかった。
三日目の夕刻、早馬が到着した。
王立学院からの報告書には、こう記されていた。
『海の底から、普通では考えられないほど多くの金属を検出。海藻や貝が死んでいる原因である可能性が高い』
「……製錬所か」
レオニスの声は低かった。
「殿下。ですが、これだけで製錬所のせいだと決めることはできませんわ」
マリエッタが冷静に指摘する。
「排水が原因だという直接の証拠がありません。先方は必ず『上流の鉱山から自然に流れ出たものだ』と主張しますわ」
「その通りだ。だから、経路を押さえる」
地図を広げた。
「セルキアは、匂いが北湾の奥へ行くほど強くなると言った。ならば、源は湾の最奥にある」
「製錬所の排水口ですわね」
「排水口の近くから、少しずつ離れながら泥を集める。遠ざかるほど金属が減っていくなら、そこから流れ出たと示せる」
その夜、セルキアがランプを手に事務室へやってきた。
「殿下。まだ起きていらしたのですか」
「君こそ」
「私は、思いついたことがありまして」
机に自分の記録帳を広げた。細かい字で、日付と観察が並んでいる。
「弱った子たちですが、みんな同じ場所で餌を探していたのだと思います」
「なぜわかる」
「胃の中に残っていたものです。獣医さまに聞いて、書き留めました」
ページをめくると、そこにはアザラシたちが何を食べていたか、細かく書かれていた。
「元気な子は、いろいろな魚を食べています。でも、弱った子は、砂に潜る貝や、底にいる魚ばかりです」
「……底の生き物を食べている」
「はい。毒が積もっているのは、海の底です」
思わず息を止めた。
海の上のほうを泳ぐ魚を食べていた子は元気だ。
なのに、海の底にいる貝や魚を食べた子だけが弱っている。
毒のようなものは、海の底にたまっているのかもしれない。
「セルキア。これを、いつからつけていた」
「二か月前です。おかしいと思ったので」
二か月前――誰も異変に気づいていなかった頃だ。
「君は、なぜ報告しなかった」
「証拠が足りませんでした」
まっすぐレオニスを見上げた。
「マリエッタ様が教えてくださいました。『あなたにしかわからないままでは、何も残りません』と。だから、数を集めていました」
思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「殿下?」
「いや。君が、俺の想像よりずっと先を歩いていたことが、嬉しい」
セルキアの頬が、ほんのり赤くなる。
「あの、殿下」
「何だ」
「これは、人間にも関わりますか」
その問いに、レオニスの表情が引き締まった。
「ああ」
「やはり、そうですか」
「海底の生き物を食べるのは、アザラシだけではない。貝も、底魚も、人が食べる」
セルキアの顔から血の気が引いた。
「では、漁師の方々は……」
「今すぐ調べる。明日の朝、村へ行く」



