若いアザラシが、細い排水路の途中で身体を挟まれていた。
海へ流されたのではない。
逃げようとして、途中で動けなくなったらしい。
「縄を!」
「板も持ってこい!」
大人たちが動き始める。
セルキアは水路の入口にしゃがみ込み、声をかけ続けた。
「大丈夫です! 今、行きますから!」
アザラシが短く鳴く。
「怖いそうです!」
「それは見ればわかりますな!」
バルトの返事に、こんなときなのに少しだけ笑いが起きた。
救出には半刻ほどかかった。
引き上げられたアザラシは脇腹に擦り傷を作っていたが、それ以外に大きな怪我はなかった。
獣医が診察を終えるまで、セルキアはずっとそばにいた。
「……私、役に立てましたか」
小さく尋ねる。
「もちろんだ」
レオニスが隣に立った。
「でも、泳いでいません」
「泳がなくても見つけただろう」
「はい」
「助ける方法は、一つじゃない」
自分の濡れていない服を見下ろした。
飛び込まずに誰かを助けたのは、初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「次からは、勝手に飛び込みません」
「本当だな」
「たぶん!」
「そこは言い切れ」
「……はい」
翌日。
セルキアは報告書の最後に、新しい項目を一つ増やした。
『あらしのときは、ひとりで海に入らない。泳げる人も入らない。まず、どこにいるかを探す』
マリエッタが後ろから覗き込む。
「『泳げる人も入らない』ではなく、『安全を確認できない場合は入水しない』ですわね」
「難しいです!」
「ですが、大切なことですわ」
頬を膨らませながら書き直した。
その決まりは後に、保護院の正式な救助の決まりになった。
数日後、バルトが新しく書き直した救助の決まりを壁へ貼ると、セルキアは少しだけ不満そうに眺めた。
「私も、みなさんと同じなのですね」
「同じとは?」
「海へ入る前に許可をもらって、縄をつけて、危なければ戻るところです」
「当たり前ですな」
「私は元アザラシなのに」
「元アザラシでも、セルキア様はお一人しかおりません」
バルトは、壁の紙を指で叩いた。
「特別に泳げるからこそ、無茶をなさったら皆が真似をします。『セルキア様がやっていたから大丈夫だ』とな」
「……それは困ります」
「でしょう?」
しばらく考え、それから紙のいちばん下に一行を書き足した。
『じぶんだけは大丈夫、と思わない』
マリエッタに見つかれば、もっと難しい言葉へ直されるだろう。
それでも今は、この言葉がいちばんわかりやすかった。
そして二年後、北湾の海へ潜るとき、セルキア自身が腰に命綱を結ぶ理由にもなった。
セルキアが十一歳になった年の春、異変は静かに始まった。
最初に気づいたのは、保護院の記録係だった。
「バルトさん。今月の搬入数ですが」
「多いのか」
「先月の倍です。それも、外傷のない個体ばかりで」
運び込まれるアザラシに、網の傷も、船との衝突痕もない。
ただ痩せ、動きが鈍く、餌を与えても半分しか食べない。
原因がわからないまま、弱って死ぬアザラシまで出始めた。
同じ頃、沿岸の漁村では別の問題が起きていた。
「魚が獲れねえ」
「網を入れても、去年の三割だ」
「このままじゃ、冬を越せねえぞ」
漁師たちの不満は、やがて保護院へ向かった。
「アザラシを増やしすぎたんじゃねえのか」
「王太子様が獣を守るから、俺たちの魚がなくなるんだ」
「動物なんか守っている場合じゃねえだろう!」
六年前に王宮の会議室で交わされた議論が、今度は港町の広場で燃え上がっていた。
「殿下。海辺の五つの村から、保護院を小さくしてほしいという嘆願書が届いております」
王宮の執務室で、文官が書状の束を差し出す。
十八歳になったレオニスは、一枚ずつ丁寧に目を通していった。
「署名は、何名だ」
「三百二十七名。村の成人ほぼ全員かと」
「……本気だな」
嘆願書の文字は、荒く、不揃いだった。
書き慣れない手で、必死に綴られたものだとわかる。
「殿下。ここは一度、保護院の予算を凍結し、漁業支援へ振り替えるべきかと。世論も——」
「それで魚が戻るのか」
レオニスの問いに、文官は言葉を詰まらせた。
「アザラシを減らせば魚が戻るという証拠は、どこにもない。数字を見ろ。保護するアザラシが増えた年でも、魚がたくさん獲れた年はある」
「しかし、村人たちは納得しません」
「納得させるのは、私の仕事だ。だが、そのためには原因を突き止めねばならない」
立ち上がり、外套を手に取った。
「保護院へ行く。馬の用意を」
その頃、保護院ではセルキアが浜辺に立ち尽くしていた。
白銀の髪が、風になびいている。
十一歳になった彼女は背が伸び、以前のような幼さは薄れていた。
だが、その表情はいつになく険しい。
「セルキア様。そろそろ中へ」
リナが声をかけても、動かない。
「……匂いが」
「え?」
「海の匂いが、いつもと違います」
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「潮の匂いの下に、別のものが混じっています。鉄をなめたような……いいえ、もっと苦いです」
「何かの薬品でしょうか」
「わかりません。でも、去年の秋にはありませんでした」
背後で馬蹄の音が響いた。振り返ると、レオニスが下馬するところだった。
「殿下!」
「セルキア。状況を聞かせてくれ」
挨拶もそこそこに、二人は保護院の事務室へ入った。
マリエッタが記録を広げて待っている。
「レオニス様。運び込まれたアザラシの共通点を調べましたわ」
すっかり運営の中核になっていた。
帳簿を扱う手つきに、迷いがない。
「弱ったアザラシの九割が、北の湾から南の海で見つかっています。逆に、東の岩場は去年までとほとんど変わりません」
「地域が偏っているのか」
「はい。そして、魚が獲れなくなっている村も、ほぼ同じ範囲ですわ」
地図を睨む。
「北湾から南……ここには何がある」
「漁村が三つ。それから、五年前に建った製錬所が一つ」
海へ流されたのではない。
逃げようとして、途中で動けなくなったらしい。
「縄を!」
「板も持ってこい!」
大人たちが動き始める。
セルキアは水路の入口にしゃがみ込み、声をかけ続けた。
「大丈夫です! 今、行きますから!」
アザラシが短く鳴く。
「怖いそうです!」
「それは見ればわかりますな!」
バルトの返事に、こんなときなのに少しだけ笑いが起きた。
救出には半刻ほどかかった。
引き上げられたアザラシは脇腹に擦り傷を作っていたが、それ以外に大きな怪我はなかった。
獣医が診察を終えるまで、セルキアはずっとそばにいた。
「……私、役に立てましたか」
小さく尋ねる。
「もちろんだ」
レオニスが隣に立った。
「でも、泳いでいません」
「泳がなくても見つけただろう」
「はい」
「助ける方法は、一つじゃない」
自分の濡れていない服を見下ろした。
飛び込まずに誰かを助けたのは、初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「次からは、勝手に飛び込みません」
「本当だな」
「たぶん!」
「そこは言い切れ」
「……はい」
翌日。
セルキアは報告書の最後に、新しい項目を一つ増やした。
『あらしのときは、ひとりで海に入らない。泳げる人も入らない。まず、どこにいるかを探す』
マリエッタが後ろから覗き込む。
「『泳げる人も入らない』ではなく、『安全を確認できない場合は入水しない』ですわね」
「難しいです!」
「ですが、大切なことですわ」
頬を膨らませながら書き直した。
その決まりは後に、保護院の正式な救助の決まりになった。
数日後、バルトが新しく書き直した救助の決まりを壁へ貼ると、セルキアは少しだけ不満そうに眺めた。
「私も、みなさんと同じなのですね」
「同じとは?」
「海へ入る前に許可をもらって、縄をつけて、危なければ戻るところです」
「当たり前ですな」
「私は元アザラシなのに」
「元アザラシでも、セルキア様はお一人しかおりません」
バルトは、壁の紙を指で叩いた。
「特別に泳げるからこそ、無茶をなさったら皆が真似をします。『セルキア様がやっていたから大丈夫だ』とな」
「……それは困ります」
「でしょう?」
しばらく考え、それから紙のいちばん下に一行を書き足した。
『じぶんだけは大丈夫、と思わない』
マリエッタに見つかれば、もっと難しい言葉へ直されるだろう。
それでも今は、この言葉がいちばんわかりやすかった。
そして二年後、北湾の海へ潜るとき、セルキア自身が腰に命綱を結ぶ理由にもなった。
セルキアが十一歳になった年の春、異変は静かに始まった。
最初に気づいたのは、保護院の記録係だった。
「バルトさん。今月の搬入数ですが」
「多いのか」
「先月の倍です。それも、外傷のない個体ばかりで」
運び込まれるアザラシに、網の傷も、船との衝突痕もない。
ただ痩せ、動きが鈍く、餌を与えても半分しか食べない。
原因がわからないまま、弱って死ぬアザラシまで出始めた。
同じ頃、沿岸の漁村では別の問題が起きていた。
「魚が獲れねえ」
「網を入れても、去年の三割だ」
「このままじゃ、冬を越せねえぞ」
漁師たちの不満は、やがて保護院へ向かった。
「アザラシを増やしすぎたんじゃねえのか」
「王太子様が獣を守るから、俺たちの魚がなくなるんだ」
「動物なんか守っている場合じゃねえだろう!」
六年前に王宮の会議室で交わされた議論が、今度は港町の広場で燃え上がっていた。
「殿下。海辺の五つの村から、保護院を小さくしてほしいという嘆願書が届いております」
王宮の執務室で、文官が書状の束を差し出す。
十八歳になったレオニスは、一枚ずつ丁寧に目を通していった。
「署名は、何名だ」
「三百二十七名。村の成人ほぼ全員かと」
「……本気だな」
嘆願書の文字は、荒く、不揃いだった。
書き慣れない手で、必死に綴られたものだとわかる。
「殿下。ここは一度、保護院の予算を凍結し、漁業支援へ振り替えるべきかと。世論も——」
「それで魚が戻るのか」
レオニスの問いに、文官は言葉を詰まらせた。
「アザラシを減らせば魚が戻るという証拠は、どこにもない。数字を見ろ。保護するアザラシが増えた年でも、魚がたくさん獲れた年はある」
「しかし、村人たちは納得しません」
「納得させるのは、私の仕事だ。だが、そのためには原因を突き止めねばならない」
立ち上がり、外套を手に取った。
「保護院へ行く。馬の用意を」
その頃、保護院ではセルキアが浜辺に立ち尽くしていた。
白銀の髪が、風になびいている。
十一歳になった彼女は背が伸び、以前のような幼さは薄れていた。
だが、その表情はいつになく険しい。
「セルキア様。そろそろ中へ」
リナが声をかけても、動かない。
「……匂いが」
「え?」
「海の匂いが、いつもと違います」
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「潮の匂いの下に、別のものが混じっています。鉄をなめたような……いいえ、もっと苦いです」
「何かの薬品でしょうか」
「わかりません。でも、去年の秋にはありませんでした」
背後で馬蹄の音が響いた。振り返ると、レオニスが下馬するところだった。
「殿下!」
「セルキア。状況を聞かせてくれ」
挨拶もそこそこに、二人は保護院の事務室へ入った。
マリエッタが記録を広げて待っている。
「レオニス様。運び込まれたアザラシの共通点を調べましたわ」
すっかり運営の中核になっていた。
帳簿を扱う手つきに、迷いがない。
「弱ったアザラシの九割が、北の湾から南の海で見つかっています。逆に、東の岩場は去年までとほとんど変わりません」
「地域が偏っているのか」
「はい。そして、魚が獲れなくなっている村も、ほぼ同じ範囲ですわ」
地図を睨む。
「北湾から南……ここには何がある」
「漁村が三つ。それから、五年前に建った製錬所が一つ」



