いなくなっても……?
その言葉に、レオニスの胸が小さく軋んだ。
「セルキア」
「はい」
「君は、どこかへ行くつもりなのか」
首を傾げた。
「いいえ?ですが、人はいつか死にます。お父さまが言っていました」
「……ああ。そうだな」
「ですから、書き残しておくのです」
あまりに素直な答えに、レオニスは自分の動揺が恥ずかしくなった。
この子が語っているのは、海へ帰ることではなく、もっと当たり前の、命の終わりについてだ。
それでも、心のどこかで抱えていた不安が、ふいに形を持って浮かび上がった気がした。
その夜、公爵邸のささやかな晩餐には、レオニスも招かれた。
食卓に大皿が運ばれてくる。丸ごと一尾焼かれた白身魚だった。
「セルキアの好物でございます」
夫人が説明する横で、セルキアの瞳が輝いている。
「殿下!これは、今朝港に上がったばかりです!」
「なぜわかる」
「匂いです!」
「……そうか」
レオニスは、ナイフとフォークを取ろうとしたセルキアの手元をじっと見つめた。
「セルキア」
「はい」
「丸呑みは」
「しません!」
「本当だな」
「この大きさは、さすがに無理です!」
その答えに、公爵が吹き出し、夫人が「まあ」と口元を押さえた。
和やかな食事の席で、公爵が改まった様子で口を開いた。
「殿下。この三年、娘が保護院へ通うことをお許しくださり、感謝しております」
「礼を言うのはこちらのほうです。あの子がいなければ、救えなかった命がいくつもある」
「あの子は……その、普通の令嬢とは違いますので」
「知っています」
レオニスは静かに答えた。
「だからこそ、あの子には、あの子の生き方をさせてやりたい」
公爵は深く頭を下げた。
食後、セルキアは早々に本を読み始め、いつの間にか居間の長椅子で眠ってしまった。
膝の上には、開いたままの観察記録がある。
「……起こしましょうか」
「いや、そのままで」
そっと本を取り上げて閉じ、脇の卓へ置いた。
眠るセルキアの顔にかかった白銀の髪を、指先で払ってやる。
九歳。まだ幼い……
だが、いつかこの子は大人になる。
自分で道を選び、自分の足で歩いていくだろう。
そのとき、自分はどこにいるのか。
「殿下」
寝ぼけたセルキアが、うっすらと目を開け呟く。
「……あしたも、いらっしゃいますか」
しばらく答えられなかった。
いつまでも、この子の寝顔を眺めていたいと思ってしまう自分がいた。
「ああ。行くよ」
「よかったです……」
小さな寝息が、再び規則正しくなる。
窓の外では、変わらず波の音が響いていた。
九歳の冬の終わり、セルキアは初めて「助けに行かない」という判断を覚えた。
その日は朝から風が強かった。
午後には空が暗くなり、保護院の窓を雨が激しく叩き始める。
「今日は早めにお帰りください」
バルトに言われても、セルキアは窓の外を気にしていた。
「でも、七番プールの子が落ち着いていません」
「嵐の音に驚いているのでしょう」
「違います。海のほうを見ています」
七番プールには、放流を数日後に控えた若いアザラシが三頭いる。
三頭とも、水面から頭を出しては同じ方向へ鼻を向けていた。
そのときだった。
外から、何かが割れる大きな音がした。
「何です!?」
「裏手の柵です!」
職員が駆け込んでくる。
高波で、海へつながる水路の外柵が一部壊れたという。
「七番を確認しろ!」
バルトの声で職員たちが走る。
その後を追った。
プールには、二頭しかいなかった。
「一頭、いません!」
「水路へ出たのか!」
壊れた柵の向こうでは、灰色の海が荒れている。
波が石壁へぶつかるたび、白いしぶきが高く上がった。
迷わず上着を脱ぎ始めた。
「セルキア様!」
「探してきます!」
「駄目です!」
「私なら泳げます!」
バルトが止めるより早く、セルキアは水路へ向かおうとした。
だが、腕を掴まれた。
「離してください!」
「離さない」
振り返ると、いつの間にかレオニスが立っていた。
嵐がひどくなる前に迎えに来たらしい。濡れた外套から水が滴っている。
「殿下! 一頭いないんです!」
「聞いた」
「なら、早く探さないと!」
「だからといって、君が飛び込んでいい海ではない」
「でも私は元アザラシです!」
「今は九歳の人間だ!」
強い声に、セルキアは動きを止めた。
「俺たちが助けたいのは一頭だ。君まで流されたら、助けなければならない相手が二人になる」
「でも……」
「助ける側が、助けられる側になってどうする」
唇を噛んだ。
海なら負けない。
ずっと、そう思ってきた。
五歳のときだってマリエッタを助けられた。
けれど、目の前の海は、あのときとは違う。
大人の職員ですら、岸へ近づくのをためらうほど荒れている。
「……では、どうすればいいのですか」
「君にしかできないことをしろ。海へ入ることだけが、君の力じゃない」
言われたとおり、目を閉じた。
雨の音。
風の音。
石壁へぶつかる波。
職員たちの声。
全部がうるさくて、いつものようには聞こえない。
それでも、耳を澄ます。
「……鳴いています」
「どこだ」
「待ってください」
風上へ少し移動した。
鼻から息を吸い、また耳を澄ます。
「海ではありません」
「何?」
「もっと近いです。水路の……向こう」
指さした先には、壊れた柵から流れ込んだ海水がたまる排水溝があった。
職員が灯りを持って覗き込む。
「いました!」
その言葉に、レオニスの胸が小さく軋んだ。
「セルキア」
「はい」
「君は、どこかへ行くつもりなのか」
首を傾げた。
「いいえ?ですが、人はいつか死にます。お父さまが言っていました」
「……ああ。そうだな」
「ですから、書き残しておくのです」
あまりに素直な答えに、レオニスは自分の動揺が恥ずかしくなった。
この子が語っているのは、海へ帰ることではなく、もっと当たり前の、命の終わりについてだ。
それでも、心のどこかで抱えていた不安が、ふいに形を持って浮かび上がった気がした。
その夜、公爵邸のささやかな晩餐には、レオニスも招かれた。
食卓に大皿が運ばれてくる。丸ごと一尾焼かれた白身魚だった。
「セルキアの好物でございます」
夫人が説明する横で、セルキアの瞳が輝いている。
「殿下!これは、今朝港に上がったばかりです!」
「なぜわかる」
「匂いです!」
「……そうか」
レオニスは、ナイフとフォークを取ろうとしたセルキアの手元をじっと見つめた。
「セルキア」
「はい」
「丸呑みは」
「しません!」
「本当だな」
「この大きさは、さすがに無理です!」
その答えに、公爵が吹き出し、夫人が「まあ」と口元を押さえた。
和やかな食事の席で、公爵が改まった様子で口を開いた。
「殿下。この三年、娘が保護院へ通うことをお許しくださり、感謝しております」
「礼を言うのはこちらのほうです。あの子がいなければ、救えなかった命がいくつもある」
「あの子は……その、普通の令嬢とは違いますので」
「知っています」
レオニスは静かに答えた。
「だからこそ、あの子には、あの子の生き方をさせてやりたい」
公爵は深く頭を下げた。
食後、セルキアは早々に本を読み始め、いつの間にか居間の長椅子で眠ってしまった。
膝の上には、開いたままの観察記録がある。
「……起こしましょうか」
「いや、そのままで」
そっと本を取り上げて閉じ、脇の卓へ置いた。
眠るセルキアの顔にかかった白銀の髪を、指先で払ってやる。
九歳。まだ幼い……
だが、いつかこの子は大人になる。
自分で道を選び、自分の足で歩いていくだろう。
そのとき、自分はどこにいるのか。
「殿下」
寝ぼけたセルキアが、うっすらと目を開け呟く。
「……あしたも、いらっしゃいますか」
しばらく答えられなかった。
いつまでも、この子の寝顔を眺めていたいと思ってしまう自分がいた。
「ああ。行くよ」
「よかったです……」
小さな寝息が、再び規則正しくなる。
窓の外では、変わらず波の音が響いていた。
九歳の冬の終わり、セルキアは初めて「助けに行かない」という判断を覚えた。
その日は朝から風が強かった。
午後には空が暗くなり、保護院の窓を雨が激しく叩き始める。
「今日は早めにお帰りください」
バルトに言われても、セルキアは窓の外を気にしていた。
「でも、七番プールの子が落ち着いていません」
「嵐の音に驚いているのでしょう」
「違います。海のほうを見ています」
七番プールには、放流を数日後に控えた若いアザラシが三頭いる。
三頭とも、水面から頭を出しては同じ方向へ鼻を向けていた。
そのときだった。
外から、何かが割れる大きな音がした。
「何です!?」
「裏手の柵です!」
職員が駆け込んでくる。
高波で、海へつながる水路の外柵が一部壊れたという。
「七番を確認しろ!」
バルトの声で職員たちが走る。
その後を追った。
プールには、二頭しかいなかった。
「一頭、いません!」
「水路へ出たのか!」
壊れた柵の向こうでは、灰色の海が荒れている。
波が石壁へぶつかるたび、白いしぶきが高く上がった。
迷わず上着を脱ぎ始めた。
「セルキア様!」
「探してきます!」
「駄目です!」
「私なら泳げます!」
バルトが止めるより早く、セルキアは水路へ向かおうとした。
だが、腕を掴まれた。
「離してください!」
「離さない」
振り返ると、いつの間にかレオニスが立っていた。
嵐がひどくなる前に迎えに来たらしい。濡れた外套から水が滴っている。
「殿下! 一頭いないんです!」
「聞いた」
「なら、早く探さないと!」
「だからといって、君が飛び込んでいい海ではない」
「でも私は元アザラシです!」
「今は九歳の人間だ!」
強い声に、セルキアは動きを止めた。
「俺たちが助けたいのは一頭だ。君まで流されたら、助けなければならない相手が二人になる」
「でも……」
「助ける側が、助けられる側になってどうする」
唇を噛んだ。
海なら負けない。
ずっと、そう思ってきた。
五歳のときだってマリエッタを助けられた。
けれど、目の前の海は、あのときとは違う。
大人の職員ですら、岸へ近づくのをためらうほど荒れている。
「……では、どうすればいいのですか」
「君にしかできないことをしろ。海へ入ることだけが、君の力じゃない」
言われたとおり、目を閉じた。
雨の音。
風の音。
石壁へぶつかる波。
職員たちの声。
全部がうるさくて、いつものようには聞こえない。
それでも、耳を澄ます。
「……鳴いています」
「どこだ」
「待ってください」
風上へ少し移動した。
鼻から息を吸い、また耳を澄ます。
「海ではありません」
「何?」
「もっと近いです。水路の……向こう」
指さした先には、壊れた柵から流れ込んだ海水がたまる排水溝があった。
職員が灯りを持って覗き込む。
「いました!」



