「セルキア」
「はい」
「君は、俺が守ろうとしてきたものを、俺より上手に言葉にする」
「では、報告書に書いてもよろしいですか!」
「そこは報告書に書くことではない」
「難しいです!」
いつもの調子に戻ったセルキアに、レオニスは笑った。
その一件は、王宮でも小さくない話題になった。
「フォーシール公爵令嬢が、岩場の子アザラシを言い当てた」
「八歳の令嬢が、殿下に捜索を進言したそうだ」
「まさか。偶然だろう」
信じない者も多かった。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
保護院では、もう誰もセルキアを「殿下のお気に入りのお嬢様」とは呼ばなくなっていた。
冬の初め、母子のアザラシが海へ帰る日が来た。
波打ち際で木箱の扉が開かれると、母アザラシが先に外へ出て、後ろを振り返る。
子アザラシがよちよちと続いた。
「お元気でーー!」
大きく手を振る。
母アザラシは一度だけ、こちらを向いた。
長い間、じっとセルキアを見つめていた。
それから、子を促すように鼻先で押し、二頭並んで波の中へ滑り込んでいく。
「……行きましたね」
「ああ」
「帰る場所があるのは、良いことです」
セルキアの声は明るかった。だが、その横顔をレオニスは見ていた。
この子には、帰る場所があるのだろうか。
海から来て、公爵家の娘となり、今は保護院と王宮を行き来している。
どこにも属していないようで、どこにでもいるような。
いつかこの子も、あの母子のように海へ帰ってしまうのではないか。
――そんな考えが、レオニスの胸に初めて影を落としたのは、この日のことだった。
「殿下?」
セルキアが不思議そうに見上げる。
「どうかなさいましたか。難しいお顔をされています」
「……いや。何でもない」
「お腹が空いているのではありませんか!お魚を食べれば元気が出ます!」
「君は何でも魚で解決しようとするな」
「元アザラシなので!」
冬の海風の中で、セルキアの笑い声だけが温かかった。
年が明け、セルキアの九歳の誕生日が近づいていた。
フォーシール公爵邸では、ささやかな祝いの準備が進められている。
海辺に建つ古い屋敷で、窓を開ければいつでも波の音が聞こえた。
「セルキア。お誕生日には、何が欲しい?」
公爵夫人が尋ねると、セルキアは即答した。
「網です!」
「……網?」
「保護院で使う、丈夫な網です。今のものは古くて、大きな子を運ぶときに破れそうなのです」
公爵夫妻は顔を見合わせた。
「あなた、それは誕生日の贈り物ではなく、備品の要望書ですわ」
「駄目でしょうか……」
「駄目ではないけれど……」
セルキアの大きな目がしょんぼりとすると、夫人は困ったように笑い、それから娘の頭を撫でた。
「セルキア。あなたは、自分のために欲しいものはないの?」
しばらく真剣に考え込むと、ぱあっと光るようにセルキアは喋り出す。
「では、お父さまとお母さまに、ずっと元気でいてほしいです」
「……それも、自分のためではないでしょうに」
公爵が咳払いをして、目元を拭った。
この夫妻には、長く子ができなかった。
ある朝、浜辺で青い布に包まれた赤子を見つけたとき、彼らは奇跡だと思った。
そして、その子が「自分はアザラシだ」と言い出したときも、否定しなかった。
どこから来たのかより、目の前で笑っている命のほうが大切だったからだ。
「セルキア」
「はい、お父さま」
「もし、いつか海へ帰りたくなったら……」
慎重に言葉を選んでいた。
「私たちは、止めない。おまえの選ぶ道を尊重する」
目を丸くしたかと思うと、勢いよく首を振る。
「帰りません!」
「そうか」
「だって、この家には、お父さまとお母さまがいます。それに、お風呂があります!」
「風呂?」
「海は塩辛いので、洗い流せません!」
あまりに現実的な理由に、公爵夫妻は声を上げて笑った。
誕生日の当日、公爵邸には意外な客が訪れた。
「殿下!?」
玄関で出迎えたセルキアが、目を真ん丸にする。
十六歳のレオニスが、供を数人だけ連れて立っていた。
「祝いに来た。招かれていないが」
「招きます!今から招きます!」
「順序が逆だな」
苦笑しながら、抱えていた包みを差し出した。
「これを」
開いてみると、中から出てきたのは一冊の分厚い本。
革張りの表紙に、金文字で題が刻まれている。
「『北方海域 海獣観察記録』……」
「三十年前に、王立学院の学者がまとめたものだ。今は絶版になっている」
「絶版!?」
「王宮の書庫に眠っていた。父上に頼んで、譲ってもらった」
震える手で表紙を撫でた。
「殿下。これは、とても高価なものではありませんか」
「金額の話ではない。君が読むべき本だと思った」
ページをめくると、細かい図版と観察記録が並んでいる。
アザラシの潜水時間、季節ごとの回遊、鳴き声の分類。
これまで感覚で知っていたことが、言葉と数字で整理されていた。
「……すごいです」
「読めるか?」
「難しい字がたくさんあります。でも、読みます!」
「わからないところは、聞きに来なさい」
「はい!」
本を胸に抱きしめ、それからふと顔を上げた。
「殿下。どうして、この本を?」
少し考えてから答えた。
「君の力は、君にしかないものだ。だが、それを言葉にできれば、他の者にも伝わる」
マリエッタが報告書について言ったことと、同じだった。
「君が感じているものを、記録として残せるようになれば、君が海へ行けない日にも、誰かがアザラシを助けられる」
しばらく本を見つめていた。
「殿下」
「何だ」
「私、大人になったら、この本のようなものを書いてもよろしいでしょうか」
目を見開いた。
「……君が?」
「はい。私が見たことを、全部書きます。そうすれば、私がいなくなっても、あの子たちを助けられます」
「はい」
「君は、俺が守ろうとしてきたものを、俺より上手に言葉にする」
「では、報告書に書いてもよろしいですか!」
「そこは報告書に書くことではない」
「難しいです!」
いつもの調子に戻ったセルキアに、レオニスは笑った。
その一件は、王宮でも小さくない話題になった。
「フォーシール公爵令嬢が、岩場の子アザラシを言い当てた」
「八歳の令嬢が、殿下に捜索を進言したそうだ」
「まさか。偶然だろう」
信じない者も多かった。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
保護院では、もう誰もセルキアを「殿下のお気に入りのお嬢様」とは呼ばなくなっていた。
冬の初め、母子のアザラシが海へ帰る日が来た。
波打ち際で木箱の扉が開かれると、母アザラシが先に外へ出て、後ろを振り返る。
子アザラシがよちよちと続いた。
「お元気でーー!」
大きく手を振る。
母アザラシは一度だけ、こちらを向いた。
長い間、じっとセルキアを見つめていた。
それから、子を促すように鼻先で押し、二頭並んで波の中へ滑り込んでいく。
「……行きましたね」
「ああ」
「帰る場所があるのは、良いことです」
セルキアの声は明るかった。だが、その横顔をレオニスは見ていた。
この子には、帰る場所があるのだろうか。
海から来て、公爵家の娘となり、今は保護院と王宮を行き来している。
どこにも属していないようで、どこにでもいるような。
いつかこの子も、あの母子のように海へ帰ってしまうのではないか。
――そんな考えが、レオニスの胸に初めて影を落としたのは、この日のことだった。
「殿下?」
セルキアが不思議そうに見上げる。
「どうかなさいましたか。難しいお顔をされています」
「……いや。何でもない」
「お腹が空いているのではありませんか!お魚を食べれば元気が出ます!」
「君は何でも魚で解決しようとするな」
「元アザラシなので!」
冬の海風の中で、セルキアの笑い声だけが温かかった。
年が明け、セルキアの九歳の誕生日が近づいていた。
フォーシール公爵邸では、ささやかな祝いの準備が進められている。
海辺に建つ古い屋敷で、窓を開ければいつでも波の音が聞こえた。
「セルキア。お誕生日には、何が欲しい?」
公爵夫人が尋ねると、セルキアは即答した。
「網です!」
「……網?」
「保護院で使う、丈夫な網です。今のものは古くて、大きな子を運ぶときに破れそうなのです」
公爵夫妻は顔を見合わせた。
「あなた、それは誕生日の贈り物ではなく、備品の要望書ですわ」
「駄目でしょうか……」
「駄目ではないけれど……」
セルキアの大きな目がしょんぼりとすると、夫人は困ったように笑い、それから娘の頭を撫でた。
「セルキア。あなたは、自分のために欲しいものはないの?」
しばらく真剣に考え込むと、ぱあっと光るようにセルキアは喋り出す。
「では、お父さまとお母さまに、ずっと元気でいてほしいです」
「……それも、自分のためではないでしょうに」
公爵が咳払いをして、目元を拭った。
この夫妻には、長く子ができなかった。
ある朝、浜辺で青い布に包まれた赤子を見つけたとき、彼らは奇跡だと思った。
そして、その子が「自分はアザラシだ」と言い出したときも、否定しなかった。
どこから来たのかより、目の前で笑っている命のほうが大切だったからだ。
「セルキア」
「はい、お父さま」
「もし、いつか海へ帰りたくなったら……」
慎重に言葉を選んでいた。
「私たちは、止めない。おまえの選ぶ道を尊重する」
目を丸くしたかと思うと、勢いよく首を振る。
「帰りません!」
「そうか」
「だって、この家には、お父さまとお母さまがいます。それに、お風呂があります!」
「風呂?」
「海は塩辛いので、洗い流せません!」
あまりに現実的な理由に、公爵夫妻は声を上げて笑った。
誕生日の当日、公爵邸には意外な客が訪れた。
「殿下!?」
玄関で出迎えたセルキアが、目を真ん丸にする。
十六歳のレオニスが、供を数人だけ連れて立っていた。
「祝いに来た。招かれていないが」
「招きます!今から招きます!」
「順序が逆だな」
苦笑しながら、抱えていた包みを差し出した。
「これを」
開いてみると、中から出てきたのは一冊の分厚い本。
革張りの表紙に、金文字で題が刻まれている。
「『北方海域 海獣観察記録』……」
「三十年前に、王立学院の学者がまとめたものだ。今は絶版になっている」
「絶版!?」
「王宮の書庫に眠っていた。父上に頼んで、譲ってもらった」
震える手で表紙を撫でた。
「殿下。これは、とても高価なものではありませんか」
「金額の話ではない。君が読むべき本だと思った」
ページをめくると、細かい図版と観察記録が並んでいる。
アザラシの潜水時間、季節ごとの回遊、鳴き声の分類。
これまで感覚で知っていたことが、言葉と数字で整理されていた。
「……すごいです」
「読めるか?」
「難しい字がたくさんあります。でも、読みます!」
「わからないところは、聞きに来なさい」
「はい!」
本を胸に抱きしめ、それからふと顔を上げた。
「殿下。どうして、この本を?」
少し考えてから答えた。
「君の力は、君にしかないものだ。だが、それを言葉にできれば、他の者にも伝わる」
マリエッタが報告書について言ったことと、同じだった。
「君が感じているものを、記録として残せるようになれば、君が海へ行けない日にも、誰かがアザラシを助けられる」
しばらく本を見つめていた。
「殿下」
「何だ」
「私、大人になったら、この本のようなものを書いてもよろしいでしょうか」
目を見開いた。
「……君が?」
「はい。私が見たことを、全部書きます。そうすれば、私がいなくなっても、あの子たちを助けられます」



