夕方、二人はプールを見下ろせる高台のベンチに腰かけていた。
潮風が心地よく吹き抜けている。
「セルキア」
「はい」
「君は、なぜここまでするんだ」
問いかけると、セルキアは足をぶらぶらさせながら考え込んだ。
「はじめは、殿下に恩返しがしたかったのです」
「ああ」
「でも、最近は少し違います」
夕日がプールの水面を照らし、そこに浮かぶアザラシたちの黒い頭を、点々と輝かせている。
「あの子たちが海へ帰るとき、とても嬉しいのです。私が助けたわけではなくても、嬉しいのです」
セルキアはレオニスを見上げた。
「殿下も、そうでしょう?」
「……ああ。そうだな」
三年前、五歳のセルキアが胸を張って言った「恩返し」は、いつの間にか別のものへ育っていた。
誰かに返すためではなく、自分の意志で誰かを助けたいという願いへ。
レオニスは、その変化を眩しく思った。
「殿下」
「何だ」
「私が大きくなったら、ここで働かせてください」
「公爵令嬢が職員になるのは、前例がないな」
「では、前例を作ります!」
あまりに真剣な顔で言うので、レオニスは笑ってしまった。
「わかった。考えておこう」
「本当ですか!」
「ただし、報告書を最後まで書けるようになったらだ」
「殿下まで!」
ベンチの上で飛び跳ねる。
その拍子にバランスを崩し、レオニスの肩へ倒れ込んだ。
「だから、落ち着きなさい」
「……殿下」
「何だ」
「今日も、温かいです」
小さな頭が、肩に寄りかかったまま動かない。
そのまましばらく黙っていた。
八歳の少女の重みは、五歳の頃より確かに増している。
あの日、外套に包んで抱き上げた小さな命が、こうして自分の隣で息をしている。
「セルキア」
「はい」
「魚は、丸呑みしていないな」
「……しています」
「していないと言え」
「嘘はいけません!」
夕日が沈むまで、二人はそこに座っていた。
その頃、事務室ではマリエッタが帳簿と格闘していた。
「マリエッタ様。休憩になさいませんか」
リナが茶を運んでくる。
「ありがとう。ですが、沿岸部への分院設立の見積もりを今日中に出さねばなりませんの」
「本当に、よく働かれますね」
「……そうでしょうか」
羽根ペンを置き、窓の外を見た。
高台のベンチに、レオニスとセルキアの影が並んでいる。
三年前、あの場所に自分が座ることを望んでいた。
王太子妃候補として、正しい振る舞いをすれば、正しい未来が手に入ると信じていた。
今は違う。
自分が数字を積み上げれば、分院が一つ増える。
分院が一つ増えれば、救われる命が増える。
それは、誰かの隣に座ることとは別の形の、確かな仕事だった。
「リナ」
「はい」
「わたくし、以前はここの匂いが嫌いでしたの」
「今は?」
「……悪くありませんわ」
茶を一口飲み、再びペンを取った。
「さあ、続きを。あの子が職員になりたいと言い出す前に、雇える体制を整えておかねばなりませんもの」
その年の秋、保護院に一頭の大きな雌アザラシが運び込まれた。
体長は成獣の中でも大きいほうで、後肢に古い傷跡がある。
網に絡まった経験があるらしく、人の姿を見ただけで威嚇の声を上げた。
「駄目です、近づかないでください!」
バルトが職員たちを制する。
歯を剥き出しにした成獣のアザラシは、子供が想像するような愛らしい生き物とはまったく違う。
噛まれれば骨まで達する。
「診察もできませんな。餌も口をつけません」
「弱り方がひどい。このままでは、三日ももたないかと」
獣医たちが頭を抱えていたところへ、セルキアがやってきた。
「新しい子が来たと聞きました!」
「セルキア様、今日はいけません。あちらは気が立っております」
バルトが慌てて止めるが、セルキアはプールの柵の前に立ち、じっと雌アザラシを見つめていた。
「……この子、怒っているのではありません」
「え?」
「怖がっています。それから、探しています」
「探す?」
「子供です。近くに、子供がいたはずです」
職員たちが顔を見合わせる。
「保護されたときは、一頭だけでしたが……」
「発見場所は、どちらですか」
「北の岩礁地帯です。漁師が通報してきました」
即座に振り返った。
「行きましょう。まだ、いるかもしれません」
その日のうちに、レオニスへ早馬が飛んだ。
翌朝には彼自身が保護院へ到着し、捜索隊が組まれた。
「殿下。八歳のご令嬢の言葉だけで、これだけの人手を動かすのですか」
同行した文官が、遠慮がちに尋ねる。
「あの子の言葉は、これまで一度も外れていない」
「しかし——」
「外れていれば、俺が責任を取る。それでいいだろう」
レオニスの声は静かだったが、反論を許さない強さがあった。
北の岩礁地帯は、潮の流れが複雑で、小舟でも入るのが難しい場所に捜索は難航した。
「セルキア。何かわかるか」
「風が邪魔をしています。もう少し、あちらへ」
舟の縁から身を乗り出すセルキアを、レオニスが背後から支える。
示された方向へ舟を進めること、およそ半刻。
「――います!」
セルキアが叫んだ。
「あの岩の裏です!鳴いています!」
職員が岩場へ上がると、狭い割れ目の奥に、生後間もない子アザラシが横たわっていた。
声もほとんど出せないほど弱っていた。
それでも、まだ息はある。
「間に合った……!」
保護院へ運び込まれた子アザラシは、すぐに治療を受けることに。
そして母親と同じ場所へ移された瞬間、あれほど人を威嚇していた雌アザラシの鳴き声が変わった。
低く、柔らかい鳴き声。
子アザラシが弱々しく応える。
「餌を食べました!母親のほうもです!」
リナが駆け込んできて報告する。事務室にいた職員たちが、一斉に息を吐いた。
「セルキア様のおかげですな」
バルトが呟く。
だが当のセルキアは、プールの柵にもたれかかり、静かに親子を見つめていた。
いつものように飛び跳ねてはいない。
レオニスが隣に立つ。
「セルキア。どうした」
「……あの子、独りでした」
「ああ」
「暗くて、冷たくて、誰も来なくて。私、あの気持ちを知っています」
小さな肩が、わずかに震えていた。
何も言わずに、その肩へ手を置いた。
「私には、殿下が来てくださいました」
「ああ」
「だから、私も行けました」
顔を上げる。潤んだ黒い瞳が、夕日を映していた。
「殿下。私、まだうまく言えないのですが」
「ゆっくりでいい」
「助けてもらった人が、次の誰かを助けに行ける。それって、すごいことではありませんか」
しばらく答えられなかった。
三年前、まだ幼い少女が海へ飛び込んで、マリエッタを救い上げた日。
あのとき彼女は、「溺れている子を助けるのは、当たり前です」と言った。
その言葉が、今こうして形になっている。
潮風が心地よく吹き抜けている。
「セルキア」
「はい」
「君は、なぜここまでするんだ」
問いかけると、セルキアは足をぶらぶらさせながら考え込んだ。
「はじめは、殿下に恩返しがしたかったのです」
「ああ」
「でも、最近は少し違います」
夕日がプールの水面を照らし、そこに浮かぶアザラシたちの黒い頭を、点々と輝かせている。
「あの子たちが海へ帰るとき、とても嬉しいのです。私が助けたわけではなくても、嬉しいのです」
セルキアはレオニスを見上げた。
「殿下も、そうでしょう?」
「……ああ。そうだな」
三年前、五歳のセルキアが胸を張って言った「恩返し」は、いつの間にか別のものへ育っていた。
誰かに返すためではなく、自分の意志で誰かを助けたいという願いへ。
レオニスは、その変化を眩しく思った。
「殿下」
「何だ」
「私が大きくなったら、ここで働かせてください」
「公爵令嬢が職員になるのは、前例がないな」
「では、前例を作ります!」
あまりに真剣な顔で言うので、レオニスは笑ってしまった。
「わかった。考えておこう」
「本当ですか!」
「ただし、報告書を最後まで書けるようになったらだ」
「殿下まで!」
ベンチの上で飛び跳ねる。
その拍子にバランスを崩し、レオニスの肩へ倒れ込んだ。
「だから、落ち着きなさい」
「……殿下」
「何だ」
「今日も、温かいです」
小さな頭が、肩に寄りかかったまま動かない。
そのまましばらく黙っていた。
八歳の少女の重みは、五歳の頃より確かに増している。
あの日、外套に包んで抱き上げた小さな命が、こうして自分の隣で息をしている。
「セルキア」
「はい」
「魚は、丸呑みしていないな」
「……しています」
「していないと言え」
「嘘はいけません!」
夕日が沈むまで、二人はそこに座っていた。
その頃、事務室ではマリエッタが帳簿と格闘していた。
「マリエッタ様。休憩になさいませんか」
リナが茶を運んでくる。
「ありがとう。ですが、沿岸部への分院設立の見積もりを今日中に出さねばなりませんの」
「本当に、よく働かれますね」
「……そうでしょうか」
羽根ペンを置き、窓の外を見た。
高台のベンチに、レオニスとセルキアの影が並んでいる。
三年前、あの場所に自分が座ることを望んでいた。
王太子妃候補として、正しい振る舞いをすれば、正しい未来が手に入ると信じていた。
今は違う。
自分が数字を積み上げれば、分院が一つ増える。
分院が一つ増えれば、救われる命が増える。
それは、誰かの隣に座ることとは別の形の、確かな仕事だった。
「リナ」
「はい」
「わたくし、以前はここの匂いが嫌いでしたの」
「今は?」
「……悪くありませんわ」
茶を一口飲み、再びペンを取った。
「さあ、続きを。あの子が職員になりたいと言い出す前に、雇える体制を整えておかねばなりませんもの」
その年の秋、保護院に一頭の大きな雌アザラシが運び込まれた。
体長は成獣の中でも大きいほうで、後肢に古い傷跡がある。
網に絡まった経験があるらしく、人の姿を見ただけで威嚇の声を上げた。
「駄目です、近づかないでください!」
バルトが職員たちを制する。
歯を剥き出しにした成獣のアザラシは、子供が想像するような愛らしい生き物とはまったく違う。
噛まれれば骨まで達する。
「診察もできませんな。餌も口をつけません」
「弱り方がひどい。このままでは、三日ももたないかと」
獣医たちが頭を抱えていたところへ、セルキアがやってきた。
「新しい子が来たと聞きました!」
「セルキア様、今日はいけません。あちらは気が立っております」
バルトが慌てて止めるが、セルキアはプールの柵の前に立ち、じっと雌アザラシを見つめていた。
「……この子、怒っているのではありません」
「え?」
「怖がっています。それから、探しています」
「探す?」
「子供です。近くに、子供がいたはずです」
職員たちが顔を見合わせる。
「保護されたときは、一頭だけでしたが……」
「発見場所は、どちらですか」
「北の岩礁地帯です。漁師が通報してきました」
即座に振り返った。
「行きましょう。まだ、いるかもしれません」
その日のうちに、レオニスへ早馬が飛んだ。
翌朝には彼自身が保護院へ到着し、捜索隊が組まれた。
「殿下。八歳のご令嬢の言葉だけで、これだけの人手を動かすのですか」
同行した文官が、遠慮がちに尋ねる。
「あの子の言葉は、これまで一度も外れていない」
「しかし——」
「外れていれば、俺が責任を取る。それでいいだろう」
レオニスの声は静かだったが、反論を許さない強さがあった。
北の岩礁地帯は、潮の流れが複雑で、小舟でも入るのが難しい場所に捜索は難航した。
「セルキア。何かわかるか」
「風が邪魔をしています。もう少し、あちらへ」
舟の縁から身を乗り出すセルキアを、レオニスが背後から支える。
示された方向へ舟を進めること、およそ半刻。
「――います!」
セルキアが叫んだ。
「あの岩の裏です!鳴いています!」
職員が岩場へ上がると、狭い割れ目の奥に、生後間もない子アザラシが横たわっていた。
声もほとんど出せないほど弱っていた。
それでも、まだ息はある。
「間に合った……!」
保護院へ運び込まれた子アザラシは、すぐに治療を受けることに。
そして母親と同じ場所へ移された瞬間、あれほど人を威嚇していた雌アザラシの鳴き声が変わった。
低く、柔らかい鳴き声。
子アザラシが弱々しく応える。
「餌を食べました!母親のほうもです!」
リナが駆け込んできて報告する。事務室にいた職員たちが、一斉に息を吐いた。
「セルキア様のおかげですな」
バルトが呟く。
だが当のセルキアは、プールの柵にもたれかかり、静かに親子を見つめていた。
いつものように飛び跳ねてはいない。
レオニスが隣に立つ。
「セルキア。どうした」
「……あの子、独りでした」
「ああ」
「暗くて、冷たくて、誰も来なくて。私、あの気持ちを知っています」
小さな肩が、わずかに震えていた。
何も言わずに、その肩へ手を置いた。
「私には、殿下が来てくださいました」
「ああ」
「だから、私も行けました」
顔を上げる。潤んだ黒い瞳が、夕日を映していた。
「殿下。私、まだうまく言えないのですが」
「ゆっくりでいい」
「助けてもらった人が、次の誰かを助けに行ける。それって、すごいことではありませんか」
しばらく答えられなかった。
三年前、まだ幼い少女が海へ飛び込んで、マリエッタを救い上げた日。
あのとき彼女は、「溺れている子を助けるのは、当たり前です」と言った。
その言葉が、今こうして形になっている。



