可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

 翌朝、三人は海岸に立ち、放流の瞬間を見守っていた。
 マリエッタがずっと世話をしていた子アザラシは、木箱から出ると、その場で周りを見回した。

「行きなさい」

 小さく声をかける。
 子アザラシはよちよちと波打ち際へ進み、何度か振り返った。
 まるで名残を惜しむように、じっとマリエッタを見つめる。

「……行きなさい。あなたの場所は、ここではないのだから」

 その言葉に背中を押されたように、子アザラシは波の中へ入った。
 そのまま、あっという間に沖へ泳いでいく。
 沖へ小さくなっていく背中を、いつまでも見つめていた。
 そばに置いて守るだけが、助けることではない。
 元気になったなら、自分の場所へ帰してやる。
 昨日までなら、きっと考えもしなかったことだった。

 その背中を見つめていた、そのときだった。
 突然、大きな高波が押し寄せた。
 濡れた足場に足を取られ、マリエッタの身体が海へと崩れ落ちる。

「マリエッタ様!」
「わたくし、泳げ――」

 悲鳴が波音にかき消される寸前、セルキアが迷わず海へ飛び込んだ。

「セルキア!」

 レオニスが叫ぶ間もなく、五歳の身体が波間へ消える。
 数秒後、セルキアが浮かび上がった。
 マリエッタの頭を水面に出しながら、職員が投げた縄のほうへ懸命に泳いでいる。
 とても五歳児の力とは思えない、力強い泳ぎだった。

「掴まって!」

 その声に、レオニスたちが縄を引き上げ、二人はどうにか岸へと引き揚げられた。
 全身ずぶ濡れのまま、震えながら座り込むマリエッタは、隣のセルキアに問いかけた。

「どうして、わたくしを助けましたの。わたくしは、あなたを追い出そうとしたのですよ」
「溺れている子を助けるのは、当たり前です!」
「でも……わたくしたちは、王太子妃の座を争っていたのでしょう?」
「では、今度は陸で勝負しましょう! 陸はちょっと苦手ですけど!」

 あまりにまっすぐな答えに、マリエッタは泣きながら、それでも思わず笑ってしまった。
 しばらくして落ち着きを取り戻したマリエッタは、レオニスに向き直った。

「殿下。わたくし、殿下が動物保護に熱心なところが、正直なところ嫌でした。王族ならば、人間だけを優先すべきだと思っていたのです」
「その考えも、理解できる」
「でも……今なら、わかる気がします。助けられた命が、また誰かを助けることもあるのですね」

 マリエッタはもう、セルキアを敵視する目をしていなかった。
 それどころか、自らこう申し出た。

「王太子妃候補としてではなく、一人の令嬢として、保護院の運営を学ばせていただけませんか」

 その話を聞いたマリエッタの母は、娘を使ってレオニスの活動をやめさせることを諦めるしかなかった。
 だが、レオニスもセルキアも、マリエッタ自身を責めることはしなかった。
 マリエッタは、周りから教えられた考えを信じていただけだ。
 だから二人は責めず、自分で選び直せるようにした。

 その日の帰り道、セルキアはレオニスの前で、誇らしげに小さな胸を張った。

「殿下は、私を助けて幸せにしてくださいました!」
「僕は、保護院へ運んだだけだ」
「ですから、今度は私が殿下を幸せにします!」

 レオニスは、五歳児らしい無邪気な恩返し宣言だと思い、思わず目を細めて微笑んだ。

「では、楽しみに待っている」
「お任せください!」

 その約束を、レオニスは十年後まで待つことになった。




 三年の月日が流れた。

 王立海洋動物保護院――通称「あざらし幼稚園」の門は、朝の光を受けて白く輝いていた。
 潮風に混じって、餌の魚を仕分ける匂いが漂ってくる。

「おはようございます!」

 門をくぐるなり、八歳になったセルキアが元気よく声を張り上げた。
 白銀の髪を後ろで一つに結い、ドレスではなく動きやすい上着とズボンを身に着けている。
 三年前は転んでばかりだった足取りも、今ではずいぶんしっかりしていた。

「おや、セルキア様。今日もお早いですね」

 餌の準備をしていた老職員のバルトが、手を止めて笑う。

「今日は五番プールの子の様子を見に来ました!」
「五番は昨日運ばれてきたばかりですが、もうご存じで?」
「馬車の中から匂いがしました!」
「……門から五番まで、五十歩はありますよ」

 苦笑する。この三年、こうしたやり取りが何度あっただろう。
 最初のうち、職員たちはセルキアを「王太子殿下のお気に入りのお嬢様」として扱っていた。
 公爵令嬢が保護院へ通うのは珍しいが、動物好きの子供なら他にもいる。
 せいぜい、遊具の周りで騒いで帰るのだろうと思っていた。

 その認識が崩れたのは、通い始めて半年ほど経った頃。

 セルキアが、まだ誰も異変に気づいていない子アザラシの前で足を止め、こう言ったのだ。

「この子、今日は元気がないです!」

 職員は最初、取り合わなかった。
 前日の記録では餌もよく食べており、泳ぎにも異常がなかったからだ。
 だがセルキアが引き下がらない。
 念のため獣医が診ると、肺に炎症が起こり始めていた。
 あと二日遅れていれば、命に関わっていたという。

 それ以来、職員たちはセルキアの言葉を聞き流さなくなった。

「セルキア様。今朝運ばれてきた魚なのですが」

 若い職員のリナが、桶を抱えて駆けてくる。

「変な匂いがします!」
「まだ何も申し上げておりませんが……」
「すみません、通りすがりに嗅いでしまいました!」

 桶を覗き込み、鼻を近づけると、ぴくり、と眉が動いた。

「上の三匹は大丈夫です。でも下のほう、少し古いです。日陰に置いてあったところに、長く積んでありませんでしたか?」
「……確かに、荷馬車の奥に入っていたものです」
「弱っている子には、上の三匹をあげてください。元気な子なら、下のほうでも平気です!」

 リナは目を丸くして桶を見下ろした。
 魚の鮮度は、切って中を見なければわからないことが多い。
 外から匂いだけで見分けられる人間は、少なくとも保護院にはいなかった。

「セルキア様。どうしてそこまでおわかりになるのです?」
「元アザラシなので!」

 胸を張るセルキアに、リナは何も言えなくなる。
 三年前なら笑い話で済んだ答えが、今では妙な説得力を持っていた。

 ――いや、この子は本当に、海獣のことがわかっているのではないか。

 職員たちの間で、そんな囁きが交わされるようになっていた。