婚約発表から数日後、セルキアは国王に呼ばれた。
王の私室に通されるのは初めてで、扉の前でセルキアは深呼吸を三回した。
四回目を吸い込んだところで、扉が内側から開いた。
「いつまで息をしておる。入れ」
「し、失礼いたします!」
国王は窓辺に立っていた。
振り返った顔は、レオニスによく似ている。目元だけが、少し厳しい。
「そう固くならずともよい。座れ」
「……はい」
促されて椅子に腰かけたが、背筋は伸びたままだった。
「北湾の件は聞いておる。おまえが最初に気づいたそうだな」
「私は、匂いに気づいただけです」
「その匂いに気づいた者が、他にいたか」
答えられなかった。
「レオニスから聞いた。おまえは、自分には血筋がないと気にしておるとな」
心臓が跳ねた。
「……はい」
「顔を上げよ」
言われて、おそるおそる視線を上げる。
「王家に必要なのは、血の正しさではない。民に信じられる者だ」
国王の声は、思ったよりずっと穏やかだった。
「沿岸五村の署名を見た。四百を超えておった。かつて保護院を潰せと言った者たちが、今度は残せと書いてきたのだ」
「……それは、殿下のお力です」
「半分はな。残りの半分は、おまえだ」
セルキアの目に、じわりと涙が滲んだ。
「わしはな、王として何十年も、民に信じてもらうために苦労してきた。おまえは十五でそれを持っておる」
「私は、何もしておりません」
「していないと思っておるところが、いちばん厄介だ」
笑い、それから真顔に戻った。
「セルキア。おまえがどこから来たかは、わしにはどうでもよい」
「陛下……」
「息子が十年待った相手だ。それ以上の証明が、どこにいる」
こらえきれずに顔を覆った。
「あの、陛下」
「なんだ」
「泣いてもよろしいでしょうか」
「許可を取るな」
しばらくして、セルキアが顔を上げると、国王は卓の上の書類を指していた。
「保護院の仕組みを変える案だ。マリエッタから上がってきた」
「はい」
「保護院全体をまとめる役目を、王太子妃が引き受けるとある。おまえのことだな」
「……はい」
「では聞くが、王太子妃と指導官、どちらが本業だ」
意地の悪い問いだった。
少し考え、それから真面目な顔で答えた。
「どちらもです」
「両方は無理だと言う者もおろう」
「では、無理ではないと証明します」
しばらく黙り、やがて笑った。
「……レオニスが選ぶわけだ」
「陛下?」
「いや。下がってよい」
扉へ向かおうとしたセルキアを、国王が呼び止めた。
「セルキア」
「はい」
「息子は、頑固だ」
「存じております」
「泣かせたら、わしが叱る」
「……殿下をですか?」
「当たり前だろう」
一瞬きょとんとして、それから深く頭を下げた。
扉を閉めるとき、部屋の中から小さな笑い声が聞こえた気がした。
夏が来て、秋が過ぎた。
婚約してからのセルキアは、以前より忙しくなった。
午前は王宮で公務、午後は保護院。合間に隣国語の手紙を書く。
エルナからの便りも、月に一度は届いた。
隣国の港でも同じ書き方で記録を取り始めたと知らせが来て、セルキアは飛び上がって喜んだ。
「セルキア様。少しはお休みになっては」
リナが心配そうに言う。
「大丈夫です! 働くのは楽しいです!」
「そうおっしゃって、昨日は書類の上で眠っておられました」
「あれは、目を閉じて考えていました」
「よだれが出ておりました」
「……忘れてください」
秋の終わり、セルキアは久しぶりに丸一日の休みを与えられた。
与えたのは王妃である。「婚約者を働かせすぎです」と息子を叱った上でのことだった。
「では、どこかへ行くか」
迎えに来たレオニスがそう言うと、セルキアは少し考えてから答えた。
「保護院へ行きたいです」
「休みだぞ」
「はい」
「保護院は職場だぞ」
「はい!」
結局、二人は保護院へ向かった。
ただしこの日は、記録も取らず、指導もしない。
職員たちには「本日のセルキア様は客人である」と先に伝えられていた。
「セルキア様。今日は五番の子が——」
「バルトさん」
「おっと。失礼しました」
バルトが慌てて口をつぐむ。
そのやり取りを見て、セルキアは不満そうに頬を膨らませた。
「私だけ仲間はずれです」
「一日くらい我慢しなさい」
プールの縁に並んで座り、アザラシが泳ぐのを眺めるだけ。
秋の陽が水面に散って、細かく光っている。
「……これは、休んでいることになるのでしょうか」
「なっていないな」
「では、何もしないほうがよろしいですか」
「君が楽しいなら、それでいい」
足をぶらぶらさせた。
八歳の頃、高台のベンチでそうしていたのと同じ動きだった。
「殿下」
「何だ」
「私、休み方がわかりません」
「知っている」
「殿下は、わかりますか」
「……いや」
二人でしばらく黙った。
水面で、若いアザラシがくるりと回転する。
「では、練習しましょう」
「何のだ」
「休む練習です。二人で」
そう言って、レオニスの肩に頭を預けた。
「これでいかがですか」
「……上出来だ」
潮風が、二人の間を通り抜けていった。
しばらくして、レオニスがぽつりと言った。
「セルキア」
「はい」
「五歳の君を、王宮の廊下で抱き上げたことがある」
「覚えています。私が『まだ殿下が冷たいです』と言いました」
「あのとき、俺は十二歳だった」
自分の腕を見下ろした。
「重かった」
「重くありません!」
「よろけた。護衛が支えてくれた」
「聞いていません!」
顔を上げると、レオニスは笑っていた。
「今なら、片手で持ち上がる」
「試さないでください!」
「試さない」
そう言いながら、レオニスはセルキアの頭を自分の肩へ戻した。
「もう、抱き上げなくてもいい。隣にいるからな」
王の私室に通されるのは初めてで、扉の前でセルキアは深呼吸を三回した。
四回目を吸い込んだところで、扉が内側から開いた。
「いつまで息をしておる。入れ」
「し、失礼いたします!」
国王は窓辺に立っていた。
振り返った顔は、レオニスによく似ている。目元だけが、少し厳しい。
「そう固くならずともよい。座れ」
「……はい」
促されて椅子に腰かけたが、背筋は伸びたままだった。
「北湾の件は聞いておる。おまえが最初に気づいたそうだな」
「私は、匂いに気づいただけです」
「その匂いに気づいた者が、他にいたか」
答えられなかった。
「レオニスから聞いた。おまえは、自分には血筋がないと気にしておるとな」
心臓が跳ねた。
「……はい」
「顔を上げよ」
言われて、おそるおそる視線を上げる。
「王家に必要なのは、血の正しさではない。民に信じられる者だ」
国王の声は、思ったよりずっと穏やかだった。
「沿岸五村の署名を見た。四百を超えておった。かつて保護院を潰せと言った者たちが、今度は残せと書いてきたのだ」
「……それは、殿下のお力です」
「半分はな。残りの半分は、おまえだ」
セルキアの目に、じわりと涙が滲んだ。
「わしはな、王として何十年も、民に信じてもらうために苦労してきた。おまえは十五でそれを持っておる」
「私は、何もしておりません」
「していないと思っておるところが、いちばん厄介だ」
笑い、それから真顔に戻った。
「セルキア。おまえがどこから来たかは、わしにはどうでもよい」
「陛下……」
「息子が十年待った相手だ。それ以上の証明が、どこにいる」
こらえきれずに顔を覆った。
「あの、陛下」
「なんだ」
「泣いてもよろしいでしょうか」
「許可を取るな」
しばらくして、セルキアが顔を上げると、国王は卓の上の書類を指していた。
「保護院の仕組みを変える案だ。マリエッタから上がってきた」
「はい」
「保護院全体をまとめる役目を、王太子妃が引き受けるとある。おまえのことだな」
「……はい」
「では聞くが、王太子妃と指導官、どちらが本業だ」
意地の悪い問いだった。
少し考え、それから真面目な顔で答えた。
「どちらもです」
「両方は無理だと言う者もおろう」
「では、無理ではないと証明します」
しばらく黙り、やがて笑った。
「……レオニスが選ぶわけだ」
「陛下?」
「いや。下がってよい」
扉へ向かおうとしたセルキアを、国王が呼び止めた。
「セルキア」
「はい」
「息子は、頑固だ」
「存じております」
「泣かせたら、わしが叱る」
「……殿下をですか?」
「当たり前だろう」
一瞬きょとんとして、それから深く頭を下げた。
扉を閉めるとき、部屋の中から小さな笑い声が聞こえた気がした。
夏が来て、秋が過ぎた。
婚約してからのセルキアは、以前より忙しくなった。
午前は王宮で公務、午後は保護院。合間に隣国語の手紙を書く。
エルナからの便りも、月に一度は届いた。
隣国の港でも同じ書き方で記録を取り始めたと知らせが来て、セルキアは飛び上がって喜んだ。
「セルキア様。少しはお休みになっては」
リナが心配そうに言う。
「大丈夫です! 働くのは楽しいです!」
「そうおっしゃって、昨日は書類の上で眠っておられました」
「あれは、目を閉じて考えていました」
「よだれが出ておりました」
「……忘れてください」
秋の終わり、セルキアは久しぶりに丸一日の休みを与えられた。
与えたのは王妃である。「婚約者を働かせすぎです」と息子を叱った上でのことだった。
「では、どこかへ行くか」
迎えに来たレオニスがそう言うと、セルキアは少し考えてから答えた。
「保護院へ行きたいです」
「休みだぞ」
「はい」
「保護院は職場だぞ」
「はい!」
結局、二人は保護院へ向かった。
ただしこの日は、記録も取らず、指導もしない。
職員たちには「本日のセルキア様は客人である」と先に伝えられていた。
「セルキア様。今日は五番の子が——」
「バルトさん」
「おっと。失礼しました」
バルトが慌てて口をつぐむ。
そのやり取りを見て、セルキアは不満そうに頬を膨らませた。
「私だけ仲間はずれです」
「一日くらい我慢しなさい」
プールの縁に並んで座り、アザラシが泳ぐのを眺めるだけ。
秋の陽が水面に散って、細かく光っている。
「……これは、休んでいることになるのでしょうか」
「なっていないな」
「では、何もしないほうがよろしいですか」
「君が楽しいなら、それでいい」
足をぶらぶらさせた。
八歳の頃、高台のベンチでそうしていたのと同じ動きだった。
「殿下」
「何だ」
「私、休み方がわかりません」
「知っている」
「殿下は、わかりますか」
「……いや」
二人でしばらく黙った。
水面で、若いアザラシがくるりと回転する。
「では、練習しましょう」
「何のだ」
「休む練習です。二人で」
そう言って、レオニスの肩に頭を預けた。
「これでいかがですか」
「……上出来だ」
潮風が、二人の間を通り抜けていった。
しばらくして、レオニスがぽつりと言った。
「セルキア」
「はい」
「五歳の君を、王宮の廊下で抱き上げたことがある」
「覚えています。私が『まだ殿下が冷たいです』と言いました」
「あのとき、俺は十二歳だった」
自分の腕を見下ろした。
「重かった」
「重くありません!」
「よろけた。護衛が支えてくれた」
「聞いていません!」
顔を上げると、レオニスは笑っていた。
「今なら、片手で持ち上がる」
「試さないでください!」
「試さない」
そう言いながら、レオニスはセルキアの頭を自分の肩へ戻した。
「もう、抱き上げなくてもいい。隣にいるからな」



