可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

 婚約発表から数日後、セルキアは国王に呼ばれた。

 王の私室に通されるのは初めてで、扉の前でセルキアは深呼吸を三回した。
 四回目を吸い込んだところで、扉が内側から開いた。

「いつまで息をしておる。入れ」
「し、失礼いたします!」

 国王は窓辺に立っていた。
 振り返った顔は、レオニスによく似ている。目元だけが、少し厳しい。

「そう固くならずともよい。座れ」
「……はい」

 促されて椅子に腰かけたが、背筋は伸びたままだった。

「北湾の件は聞いておる。おまえが最初に気づいたそうだな」
「私は、匂いに気づいただけです」
「その匂いに気づいた者が、他にいたか」

 答えられなかった。

「レオニスから聞いた。おまえは、自分には血筋がないと気にしておるとな」

 心臓が跳ねた。

「……はい」
「顔を上げよ」

 言われて、おそるおそる視線を上げる。

「王家に必要なのは、血の正しさではない。民に信じられる者だ」

 国王の声は、思ったよりずっと穏やかだった。

「沿岸五村の署名を見た。四百を超えておった。かつて保護院を潰せと言った者たちが、今度は残せと書いてきたのだ」
「……それは、殿下のお力です」
「半分はな。残りの半分は、おまえだ」

 セルキアの目に、じわりと涙が滲んだ。

「わしはな、王として何十年も、民に信じてもらうために苦労してきた。おまえは十五でそれを持っておる」
「私は、何もしておりません」
「していないと思っておるところが、いちばん厄介だ」

 笑い、それから真顔に戻った。

「セルキア。おまえがどこから来たかは、わしにはどうでもよい」
「陛下……」
「息子が十年待った相手だ。それ以上の証明が、どこにいる」

 こらえきれずに顔を覆った。

「あの、陛下」
「なんだ」
「泣いてもよろしいでしょうか」
「許可を取るな」

 しばらくして、セルキアが顔を上げると、国王は卓の上の書類を指していた。

「保護院の仕組みを変える案だ。マリエッタから上がってきた」
「はい」
「保護院全体をまとめる役目を、王太子妃が引き受けるとある。おまえのことだな」
「……はい」
「では聞くが、王太子妃と指導官、どちらが本業だ」

 意地の悪い問いだった。
 少し考え、それから真面目な顔で答えた。

「どちらもです」
「両方は無理だと言う者もおろう」
「では、無理ではないと証明します」

 しばらく黙り、やがて笑った。

「……レオニスが選ぶわけだ」
「陛下?」
「いや。下がってよい」

 扉へ向かおうとしたセルキアを、国王が呼び止めた。

「セルキア」
「はい」
「息子は、頑固だ」
「存じております」
「泣かせたら、わしが叱る」
「……殿下をですか?」
「当たり前だろう」

 一瞬きょとんとして、それから深く頭を下げた。
 扉を閉めるとき、部屋の中から小さな笑い声が聞こえた気がした。




 夏が来て、秋が過ぎた。

 婚約してからのセルキアは、以前より忙しくなった。
 午前は王宮で公務、午後は保護院。合間に隣国語の手紙を書く。

 エルナからの便りも、月に一度は届いた。
 隣国の港でも同じ書き方で記録を取り始めたと知らせが来て、セルキアは飛び上がって喜んだ。

「セルキア様。少しはお休みになっては」

 リナが心配そうに言う。

「大丈夫です! 働くのは楽しいです!」
「そうおっしゃって、昨日は書類の上で眠っておられました」
「あれは、目を閉じて考えていました」
「よだれが出ておりました」
「……忘れてください」

 秋の終わり、セルキアは久しぶりに丸一日の休みを与えられた。
 与えたのは王妃である。「婚約者を働かせすぎです」と息子を叱った上でのことだった。

「では、どこかへ行くか」

 迎えに来たレオニスがそう言うと、セルキアは少し考えてから答えた。

「保護院へ行きたいです」
「休みだぞ」
「はい」
「保護院は職場だぞ」
「はい!」

 結局、二人は保護院へ向かった。
 ただしこの日は、記録も取らず、指導もしない。
 職員たちには「本日のセルキア様は客人である」と先に伝えられていた。

「セルキア様。今日は五番の子が——」
「バルトさん」
「おっと。失礼しました」

 バルトが慌てて口をつぐむ。
 そのやり取りを見て、セルキアは不満そうに頬を膨らませた。

「私だけ仲間はずれです」
「一日くらい我慢しなさい」

 プールの縁に並んで座り、アザラシが泳ぐのを眺めるだけ。
 秋の陽が水面に散って、細かく光っている。

「……これは、休んでいることになるのでしょうか」
「なっていないな」
「では、何もしないほうがよろしいですか」
「君が楽しいなら、それでいい」

 足をぶらぶらさせた。
 八歳の頃、高台のベンチでそうしていたのと同じ動きだった。

「殿下」
「何だ」
「私、休み方がわかりません」
「知っている」
「殿下は、わかりますか」
「……いや」

 二人でしばらく黙った。
 水面で、若いアザラシがくるりと回転する。

「では、練習しましょう」
「何のだ」
「休む練習です。二人で」

 そう言って、レオニスの肩に頭を預けた。

「これでいかがですか」
「……上出来だ」

 潮風が、二人の間を通り抜けていった。

 しばらくして、レオニスがぽつりと言った。

「セルキア」
「はい」
「五歳の君を、王宮の廊下で抱き上げたことがある」
「覚えています。私が『まだ殿下が冷たいです』と言いました」
「あのとき、俺は十二歳だった」

 自分の腕を見下ろした。

「重かった」
「重くありません!」
「よろけた。護衛が支えてくれた」
「聞いていません!」

 顔を上げると、レオニスは笑っていた。

「今なら、片手で持ち上がる」
「試さないでください!」
「試さない」

 そう言いながら、レオニスはセルキアの頭を自分の肩へ戻した。

「もう、抱き上げなくてもいい。隣にいるからな」