三日間は、驚くほど長かった。
セルキアは公爵邸に戻り、部屋にこもった。
窓を開け、海の音を聞きながら、ひたすら考えていた。
「セルキア。食事はどうします」
扉の向こうから、公爵夫人が声をかける。
「いりません」
「まあ。あなたが食事を断るなんて」
「……お魚なら、いただきます」
「そう来ると思って、持ってきましたよ」
夫人が扉を開けると、セルキアは机に向かっていた。
紙が何枚も散らばっている。
書いては消し、書いては丸め、を繰り返した跡だった。
「何を書いているの」
「殿下に、お伝えすることです」
「まあ」
皿を置き、娘の隣に立った。
「うまく書けなくて」
「あなたにしては珍しいわね。報告書はあれほど上手に書けるようになったのに」
「報告書は、事実を書くだけです」
ペンを置いた。
「でも、これは事実ではありません。……いいえ、事実ですが、書き方がわかりません」
笑って、娘の髪を撫でた。
「セルキア。あなたが十年間、殿下に言ってきた言葉を覚えている?」
「たくさん言いました」
「一番最初は?」
記憶を辿った。
「『あの時、助けていただいたアザラシです』」
「そう。あのとき、あなたは何も準備していなかったでしょう」
「はい。会ったら、そう言おうと思っていました」
「それで、伝わったのよね」
散らばった紙を集めて脇に寄せた。
「言葉は、飾らなくても届くものよ。あなたが本当に思っていることなら」
「……お母さま」
「何?」
「私、殿下に助けていただいたから、そばにいたのではありません」
夫人の手が止まる。
「最初はそうでした。でも、いつからか、違うものになっていました」
顔を上げた。
「私、殿下が好きです」
声に出したのは、初めてだった。
言った瞬間、頬が熱くなる。
それでも、不思議と後悔はなかった。
「ようやく言えたわね」
目尻に涙を浮かべていた。
「お父さまと、五年前から賭けをしていたのよ。あなたが自分で気づくのが先か、殿下が痺れを切らすのが先か」
「賭け!?」
「私が勝ちましたわ」
「お母さま!」
誕生日の朝が来た。
セルキアは、深い青のドレスを選んだ。一年前の夜会で着たものだ。
「あら。もっと華やかなものもございますよ」
「これがいいです。海の色ですから」
髪は結い上げず、下ろしたままにした。
白銀の髪が、風に揺れる。
馬車が浜辺へ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、セルキアは何度も深呼吸をした。
――大丈夫です。
――言葉は、飾らなくていいのです。
浜辺に着くと、すでにレオニスが立っていた。
夕暮れの潮風が、彼の外套を揺らしている。振り返った顔は、いつもより硬かった。
「来たか」
「はい」
「誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
波打ち際まで、二人は並んで歩いた。
ここは、レオニスが漁網に絡まった子アザラシを見つけた場所。
そして、マリエッタが海へ落ちた場所でもある。
「セルキア。今日は、君に伝えたいことがある」
レオニスが足を止めた。
指先に力が入るのが、自分でもわかった。
国の話をするときよりも、貴族たちを説得するときよりも喉が渇く。
「俺と——」
「殿下」
セルキアが、先に口を開いた。
目を見開く。
「……セルキア?」
「先に、言わせてください」
彼女は、まっすぐに彼を見上げた。
白銀の髪が、夕日を受けて輝いている。
黒く潤んだ大きな瞳が、彼だけを映していた。
「十年前のお約束を、覚えていらっしゃいますか」
言葉に詰まった。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……魚を丸呑みできるという話か」
「違います!」
「抱きしめると温かいという話か」
「それでもありません!」
頬を膨らませるセルキアに、レオニスは笑った。
緊張が、少しだけほどける。
「覚えている。君が、俺を幸せにすると言った」
セルキアの表情が、ふっと柔らかくなった。
彼女は胸の前で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、恩返しのために殿下のおそばにいたのではありません」
波の音が、遠くなった気がした。
「では、なぜだ」
「殿下が好きだからです」
まっすぐな声にレオニスの胸が、大きく鳴る。
「助けていただいたからではありません。動物にも、人間にも、同じように手を差し伸べる殿下を、ずっと見てきました」
セルキアの頬は赤く染まっている。それでも、視線を逸らさない。
「誰に笑われても、ご自分の信じるものを守ろうとなさる殿下が、好きなのです」
この十年で、彼女は多くを学んだ。
三か国語も、王宮での礼儀作法も、数字のまとめ方も。
だが今、彼女が使っているのは、五歳のときと同じ、飾らない言葉だった。
「今度は私が、殿下を幸せにします!」
セルキアは公爵邸に戻り、部屋にこもった。
窓を開け、海の音を聞きながら、ひたすら考えていた。
「セルキア。食事はどうします」
扉の向こうから、公爵夫人が声をかける。
「いりません」
「まあ。あなたが食事を断るなんて」
「……お魚なら、いただきます」
「そう来ると思って、持ってきましたよ」
夫人が扉を開けると、セルキアは机に向かっていた。
紙が何枚も散らばっている。
書いては消し、書いては丸め、を繰り返した跡だった。
「何を書いているの」
「殿下に、お伝えすることです」
「まあ」
皿を置き、娘の隣に立った。
「うまく書けなくて」
「あなたにしては珍しいわね。報告書はあれほど上手に書けるようになったのに」
「報告書は、事実を書くだけです」
ペンを置いた。
「でも、これは事実ではありません。……いいえ、事実ですが、書き方がわかりません」
笑って、娘の髪を撫でた。
「セルキア。あなたが十年間、殿下に言ってきた言葉を覚えている?」
「たくさん言いました」
「一番最初は?」
記憶を辿った。
「『あの時、助けていただいたアザラシです』」
「そう。あのとき、あなたは何も準備していなかったでしょう」
「はい。会ったら、そう言おうと思っていました」
「それで、伝わったのよね」
散らばった紙を集めて脇に寄せた。
「言葉は、飾らなくても届くものよ。あなたが本当に思っていることなら」
「……お母さま」
「何?」
「私、殿下に助けていただいたから、そばにいたのではありません」
夫人の手が止まる。
「最初はそうでした。でも、いつからか、違うものになっていました」
顔を上げた。
「私、殿下が好きです」
声に出したのは、初めてだった。
言った瞬間、頬が熱くなる。
それでも、不思議と後悔はなかった。
「ようやく言えたわね」
目尻に涙を浮かべていた。
「お父さまと、五年前から賭けをしていたのよ。あなたが自分で気づくのが先か、殿下が痺れを切らすのが先か」
「賭け!?」
「私が勝ちましたわ」
「お母さま!」
誕生日の朝が来た。
セルキアは、深い青のドレスを選んだ。一年前の夜会で着たものだ。
「あら。もっと華やかなものもございますよ」
「これがいいです。海の色ですから」
髪は結い上げず、下ろしたままにした。
白銀の髪が、風に揺れる。
馬車が浜辺へ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、セルキアは何度も深呼吸をした。
――大丈夫です。
――言葉は、飾らなくていいのです。
浜辺に着くと、すでにレオニスが立っていた。
夕暮れの潮風が、彼の外套を揺らしている。振り返った顔は、いつもより硬かった。
「来たか」
「はい」
「誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
波打ち際まで、二人は並んで歩いた。
ここは、レオニスが漁網に絡まった子アザラシを見つけた場所。
そして、マリエッタが海へ落ちた場所でもある。
「セルキア。今日は、君に伝えたいことがある」
レオニスが足を止めた。
指先に力が入るのが、自分でもわかった。
国の話をするときよりも、貴族たちを説得するときよりも喉が渇く。
「俺と——」
「殿下」
セルキアが、先に口を開いた。
目を見開く。
「……セルキア?」
「先に、言わせてください」
彼女は、まっすぐに彼を見上げた。
白銀の髪が、夕日を受けて輝いている。
黒く潤んだ大きな瞳が、彼だけを映していた。
「十年前のお約束を、覚えていらっしゃいますか」
言葉に詰まった。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……魚を丸呑みできるという話か」
「違います!」
「抱きしめると温かいという話か」
「それでもありません!」
頬を膨らませるセルキアに、レオニスは笑った。
緊張が、少しだけほどける。
「覚えている。君が、俺を幸せにすると言った」
セルキアの表情が、ふっと柔らかくなった。
彼女は胸の前で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、恩返しのために殿下のおそばにいたのではありません」
波の音が、遠くなった気がした。
「では、なぜだ」
「殿下が好きだからです」
まっすぐな声にレオニスの胸が、大きく鳴る。
「助けていただいたからではありません。動物にも、人間にも、同じように手を差し伸べる殿下を、ずっと見てきました」
セルキアの頬は赤く染まっている。それでも、視線を逸らさない。
「誰に笑われても、ご自分の信じるものを守ろうとなさる殿下が、好きなのです」
この十年で、彼女は多くを学んだ。
三か国語も、王宮での礼儀作法も、数字のまとめ方も。
だが今、彼女が使っているのは、五歳のときと同じ、飾らない言葉だった。
「今度は私が、殿下を幸せにします!」



