冬が来て、春が過ぎ、セルキアは十五歳の誕生日を迎えようとしていた。
この一年、彼女は驚くほど変わった。
隣国語はすらすら話せるようになり、王宮での礼儀作法も身についた。
夜会に出れば「フォーシール公爵家のご令嬢」として通用する。
北湾での功績も、王都の貴族に広く知られるようになっていた。
だが、変わらないものもあった。
「殿下!今日、東の岩礁で子アザラシが二頭保護されました!」
王宮の廊下を、セルキアが早足で歩いてくる。
走ってはいない……走らないと決めているからだ。
「報告は聞いている」
「一頭は元気ですが、もう一頭は少し心配です」
「獣医の見立ては?」
「しばらく様子を見るそうです。でも、私は明日また見に行きます」
二十二歳になったレオニスは、そんな彼女を眺めながら微笑んだ。
「君は、変わらないな」
「変わりました!廊下を走らなくなりました!」
「それは大きな進歩だ」
二人は並んで歩き出す。
「セルキア。誕生日はどうする」
「特に、何も」
「公爵夫妻が祝いたいと言っていたが」
「では、家で静かに過ごします」
その返答に、レオニスはわずかに眉を上げた。
昨年までなら「お魚を出してください!」と即答していたはずだ。
「……体調でも悪いのか」
「いいえ!元気です!」
「そうか」
少し早口だった。
この一年、彼女は自分の中の感情と向き合い続けていた。
名前をつけることはできた。
だが、それをどうすればいいのかがわからない。
言えば、何かが変わってしまう。
今の距離が心地よい分だけ、失うのが怖かった。
その頃、王宮では別の動きがあった。
「殿下。隣国から、正式な申し入れがございました」
文官が書状を差し出す。
「第二王女殿下との、婚姻についてのお話です」
「……唐突だな」
「昨秋の夜会以来、先方は好意的でございました。両国の関係を強くするには、悪くない話かと」
書状を受け取ると、室内の空気が張り詰める。
「返答は?」
「まだ何も。ただ、陛下は『レオニスの意思次第』とおっしゃっております」
書状を机に置いた。
「断る」
「……よろしいのですか。国のためを考えれば——」
「国のためなら、他の形で作る」
彼は立ち上がった。
「隣国とは、漁業と海の調査で協定を結ぶ準備を進めている。婚姻に頼らずとも、関係は築ける」
「しかし、先方の面子が」
「丁重に断れ。そのための言葉は、いくらでもある」
文官は頭を下げて退出した。
だが、この話は完全に伏せておくことができなかった。
数日後、王宮内の噂として、それは広まり始めた。
「隣国の王女殿下との縁談だそうだ」
「では、フォーシール嬢は……」
「気の毒にな。あれだけ尽くしてこられたのに」
その噂は、廊下を歩いていたセルキアの耳にも入った。
「……縁談」
立ち止まったまま、動けなくなる。
頭の中が真っ白になった。
――当然です。殿下は王太子です。
自分に言い聞かせようとした……だが、うまくいかない。
――私は、恩返しがしたかっただけです。それなら、殿下が幸せになるなら、それでいいはずです。
だが、足が動かない……視界まで滲んでくる。
「セルキア様?」
通りかかった侍女が心配そうに声をかけた。
首を振り、そのまま保護院へ向かった。
馬車の中でも、浜辺に着いてからも、何も考えられなかった。
ただ、海だけが見たかった。
浜辺に立ち、波の音を聞く。
――ここへ来れば、落ち着くと思っていました。
だが、落ち着くわけもなく、むしろはっきりしてしまった。
――私は、殿下のそばにいたいのです。
恩返しではない。役に立ちたいからでもない。
ただ、あの人の隣にいたい。
それが、この九年間ずっと自分を動かしてきたものの正体だった。
「……遅すぎます」
砂の上に膝をついた。
自分が気づくまでに、十年近くかかった。
その間に、他の誰かが決まってしまうのは、当然のことだ。
波が寄せて、指先を濡らす。
「セルキア」
振り返ると、レオニスが立っていた。
外套も羽織らず、息を切らしている。
「殿下……?」
「王宮を出たと聞いた。馬を飛ばした」
「なぜ……ですか」
「君が泣いていたと、侍女が」
慌てて顔を拭った。
「泣いていません」
「今も泣いている」
「……潮です」
レオニスは砂の上に膝をつき、セルキアと同じ目線の高さになる。
「セルキア。噂を聞いたな」
「……はい」
「断った」
セルキアの動きが止まった。
「え?」
「隣国の申し入れは、断った。三日前の話だ」
「でも、国のためには——」
「俺が決めることだ」
まっすぐ彼女を見た。
「セルキア。俺は、誰とも婚約するつもりがない」
その言葉に、セルキアの胸が締めつけられた。
――誰とも?
それは、自分も含まれるということだ。
「……そう、ですか」
うつむいたセルキアの声が、かすれる。
「わかりました。でしたら、私は今まで通り、保護院で——」
「セルキア」
レオニスが遮った。
「話は、まだ終わっていない」
「はい?」
「俺は、誰とも婚約しない。ただし、それは今日までの話だ」
顔を上げる。
「君の誕生日は、いつだった」
「……三日後です」
「そうだな」
立ち上がり、手を差し出した。
「三日後、君は十五歳になる。この国では、自分の意思で婚約を決められる年齢だ」
セルキアの目が、大きく見開かれた。
「俺は、十年待った」
「殿下……?」
「五歳の君に手を伸ばすことも、十歳の君に伝えることもできた。だが、それでは君が選んだことにならない」
夕日が、海を金色に染めていく。
「三日後、君に伝えたいことがある。この浜辺で」
レオニスの手は、まだ差し出されたままだった。
「それまでに、君も考えておいてほしい。断ってもいい。それも君の選択だ」
震える手を、その手に重ねた。
「……殿下」
「何だ」
「どうしましょう……私、三日も待てません」
目を瞬かせ、それから笑った。
「待ちなさい」
「なぜですか!」
「十年待った俺が言うんだ。三日くらい待て」
「……はぁい」
しょんぼりと肩を落とすセルキアの頭に、レオニスの手が乗った。
「セルキア」
「はい」
「泣いていた理由は、聞かないでおく」
「……はい」
「三日後、君の口から聞かせてくれ」
波が、二人の足元を洗っていった。
この一年、彼女は驚くほど変わった。
隣国語はすらすら話せるようになり、王宮での礼儀作法も身についた。
夜会に出れば「フォーシール公爵家のご令嬢」として通用する。
北湾での功績も、王都の貴族に広く知られるようになっていた。
だが、変わらないものもあった。
「殿下!今日、東の岩礁で子アザラシが二頭保護されました!」
王宮の廊下を、セルキアが早足で歩いてくる。
走ってはいない……走らないと決めているからだ。
「報告は聞いている」
「一頭は元気ですが、もう一頭は少し心配です」
「獣医の見立ては?」
「しばらく様子を見るそうです。でも、私は明日また見に行きます」
二十二歳になったレオニスは、そんな彼女を眺めながら微笑んだ。
「君は、変わらないな」
「変わりました!廊下を走らなくなりました!」
「それは大きな進歩だ」
二人は並んで歩き出す。
「セルキア。誕生日はどうする」
「特に、何も」
「公爵夫妻が祝いたいと言っていたが」
「では、家で静かに過ごします」
その返答に、レオニスはわずかに眉を上げた。
昨年までなら「お魚を出してください!」と即答していたはずだ。
「……体調でも悪いのか」
「いいえ!元気です!」
「そうか」
少し早口だった。
この一年、彼女は自分の中の感情と向き合い続けていた。
名前をつけることはできた。
だが、それをどうすればいいのかがわからない。
言えば、何かが変わってしまう。
今の距離が心地よい分だけ、失うのが怖かった。
その頃、王宮では別の動きがあった。
「殿下。隣国から、正式な申し入れがございました」
文官が書状を差し出す。
「第二王女殿下との、婚姻についてのお話です」
「……唐突だな」
「昨秋の夜会以来、先方は好意的でございました。両国の関係を強くするには、悪くない話かと」
書状を受け取ると、室内の空気が張り詰める。
「返答は?」
「まだ何も。ただ、陛下は『レオニスの意思次第』とおっしゃっております」
書状を机に置いた。
「断る」
「……よろしいのですか。国のためを考えれば——」
「国のためなら、他の形で作る」
彼は立ち上がった。
「隣国とは、漁業と海の調査で協定を結ぶ準備を進めている。婚姻に頼らずとも、関係は築ける」
「しかし、先方の面子が」
「丁重に断れ。そのための言葉は、いくらでもある」
文官は頭を下げて退出した。
だが、この話は完全に伏せておくことができなかった。
数日後、王宮内の噂として、それは広まり始めた。
「隣国の王女殿下との縁談だそうだ」
「では、フォーシール嬢は……」
「気の毒にな。あれだけ尽くしてこられたのに」
その噂は、廊下を歩いていたセルキアの耳にも入った。
「……縁談」
立ち止まったまま、動けなくなる。
頭の中が真っ白になった。
――当然です。殿下は王太子です。
自分に言い聞かせようとした……だが、うまくいかない。
――私は、恩返しがしたかっただけです。それなら、殿下が幸せになるなら、それでいいはずです。
だが、足が動かない……視界まで滲んでくる。
「セルキア様?」
通りかかった侍女が心配そうに声をかけた。
首を振り、そのまま保護院へ向かった。
馬車の中でも、浜辺に着いてからも、何も考えられなかった。
ただ、海だけが見たかった。
浜辺に立ち、波の音を聞く。
――ここへ来れば、落ち着くと思っていました。
だが、落ち着くわけもなく、むしろはっきりしてしまった。
――私は、殿下のそばにいたいのです。
恩返しではない。役に立ちたいからでもない。
ただ、あの人の隣にいたい。
それが、この九年間ずっと自分を動かしてきたものの正体だった。
「……遅すぎます」
砂の上に膝をついた。
自分が気づくまでに、十年近くかかった。
その間に、他の誰かが決まってしまうのは、当然のことだ。
波が寄せて、指先を濡らす。
「セルキア」
振り返ると、レオニスが立っていた。
外套も羽織らず、息を切らしている。
「殿下……?」
「王宮を出たと聞いた。馬を飛ばした」
「なぜ……ですか」
「君が泣いていたと、侍女が」
慌てて顔を拭った。
「泣いていません」
「今も泣いている」
「……潮です」
レオニスは砂の上に膝をつき、セルキアと同じ目線の高さになる。
「セルキア。噂を聞いたな」
「……はい」
「断った」
セルキアの動きが止まった。
「え?」
「隣国の申し入れは、断った。三日前の話だ」
「でも、国のためには——」
「俺が決めることだ」
まっすぐ彼女を見た。
「セルキア。俺は、誰とも婚約するつもりがない」
その言葉に、セルキアの胸が締めつけられた。
――誰とも?
それは、自分も含まれるということだ。
「……そう、ですか」
うつむいたセルキアの声が、かすれる。
「わかりました。でしたら、私は今まで通り、保護院で——」
「セルキア」
レオニスが遮った。
「話は、まだ終わっていない」
「はい?」
「俺は、誰とも婚約しない。ただし、それは今日までの話だ」
顔を上げる。
「君の誕生日は、いつだった」
「……三日後です」
「そうだな」
立ち上がり、手を差し出した。
「三日後、君は十五歳になる。この国では、自分の意思で婚約を決められる年齢だ」
セルキアの目が、大きく見開かれた。
「俺は、十年待った」
「殿下……?」
「五歳の君に手を伸ばすことも、十歳の君に伝えることもできた。だが、それでは君が選んだことにならない」
夕日が、海を金色に染めていく。
「三日後、君に伝えたいことがある。この浜辺で」
レオニスの手は、まだ差し出されたままだった。
「それまでに、君も考えておいてほしい。断ってもいい。それも君の選択だ」
震える手を、その手に重ねた。
「……殿下」
「何だ」
「どうしましょう……私、三日も待てません」
目を瞬かせ、それから笑った。
「待ちなさい」
「なぜですか!」
「十年待った俺が言うんだ。三日くらい待て」
「……はぁい」
しょんぼりと肩を落とすセルキアの頭に、レオニスの手が乗った。
「セルキア」
「はい」
「泣いていた理由は、聞かないでおく」
「……はい」
「三日後、君の口から聞かせてくれ」
波が、二人の足元を洗っていった。



