夜会から数日後、セルキアは保護院にいた。
王宮での勉強も続いているが、週に二日は必ずここへ通っている。
それは九年間、一度も途切れなかった習慣だった。
「セルキア様。今日はやけに静かですな」
餌の桶を運ぶバルトが、不思議そうに言う。
「そうでしょうか」
「いつもなら、門をくぐった時点で五番だ七番だと騒いでおられる」
「……すみません」
「謝ることではありませんが」
プールの縁に腰を下ろし、水面を眺めていた。
一頭の若いアザラシが近づいてきて、じっと彼女を見上げる。
「あなたも、私が変だと思いますか」
アザラシは、ぷいと顔を背けて潜っていった。
「……そうですよね」
膝を抱えた。
あの夜から、ずっと考えている。
自分の中に生まれた感情に、名前をつけようとして、そのたびに逃げていた。
――もし、これが恋なら。
恋を知らないわけではない。
物語の中では何度も読んだ。
マリエッタからも「令嬢の嗜みとして」いくつかの詩集を渡されている。
だが、自分がそうなるとは思っていなかった。
――私は、元アザラシです。
その事実が、初めて重く感じられた。
これまで「元アザラシなので!」は、彼女にとって誇りだった。
泳ぎが得意なことも、匂いがわかることも、すべてそこから来ている。
だが、王太子の隣に立つことを考えたとき、それは急に別の意味を持ち始めた。
――どこから来たのかも、わからない生き物です。
公爵家の養女ではある自分には血筋はない。
証明できるものが、何一つない。
「セルキア」
背後から声がした。振り返ると、マリエッタが立っている。
「マリエッタ様」
「今日の隣国語の課題、提出されておりませんわね」
「……忘れていました」
「あなたが提出を忘れるのは、二年で初めてですわ」
マリエッタは隣に腰を下ろした。ドレスが濡れることも気にしていない。
「何をお悩みですの」
「悩んでいません」
「嘘が下手ですわね」
しばらく沈黙が流れた。
二人の間を波の音だけが響く。
「……マリエッタ様」
「ええ」
「私は、王太子妃になれるでしょうか」
マリエッタは、すぐには答えなかった。
「なりたいのですか?」
「わかりません……でも、殿下の隣に、他の方が立つのは嫌です」
言葉に詰まりながら、正直な気持ちを答えた。
「それは、恋ですわね」
「そんな、私は……っ」
あっさりと言われて、セルキアは真っ赤になっていく。
「認めたくないのは、なぜです」
鋭い問いに、セルキアは膝の上で手を握りしめた。
「私は、元アザラシです……」
「存じております」
「血筋も、生まれも、何もわかりません。それに、私が海から来たことを知っている人は、王都にはほとんどいません」
「ええ」
「もし知られたら、殿下のご迷惑になるんじゃないでしょうか」
セルキアの声が震えた。
「っ……殿下は、私を助けてくださいました。私が殿下に返せるのは、恩返しだけです。それ以上を望むのは、図々しいことではありませんか?」
大きな黒目勝ちの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。
「セルキア」
「はい」
「わたくしは、十四歳のとき、あなたを追い出そうといたしました」
「……はい」
「あのとき、わたくしは『王太子妃にふさわしい者』という基準を、母から教わったとおりに信じておりました」
そう言いながら、セルキアの頬を優しく拭うと、彼女は海を見つめた。
「三か国語を話せること。作法を身につけていること。血筋が正しいこと。それらを満たせば、わたくしは価値があるのだと。けれど、わたくしは海に落ちて、五歳のあなたに助けられました」
黙って聞いていた。
マリエッタの口元が、わずかに緩む。
「あのとき、わたくしを助けたのは、血筋でも語学力でもございませんでした。ただ、溺れている者を放っておけないという、あなたの心ですわ」
「……マリエッタ様」
「あなたが図々しいとおっしゃるなら、わたくしはもっと図々しかったことになりますわね。何一つ持たないくせに、資格があると思い込んでおりましたもの」
首を振った。
「そんなことないです!マリエッタ様はいつも私によくしてくれました!」
「同じことですわ」
立ち上がり、スカートの砂を払った。
「セルキア。あなたが自分にふさわしくないと思うのは自由です。ですが、それを決めるのはあなたではありませんわ」
「では、誰が……」
「殿下と、あなた自身の二人ですわ。他の誰でもございません」
その言葉に、顔を上げた。
「……でも、そうですわね。あなたが降りるというのでしたら、わたくしが王太子妃になりますわ」
「っ!!ダメです!!マリエッタ様のことを嫌いになりたくありません!!」
嫌う……?誰かを嫌いだと思ったことなど、セルキアにはなかった。
でも、誰かがあの人の隣に立つと思ったら、その感情を想像できてしまった。
「よろしいこと?あなたが遠慮して身を引いたとして、その結果、殿下が別の方と婚約なさったとします」
「……はい」
「あなたはそれを、心から祝福できますの」
答えられなかった。
「できないのなら、逃げているだけですわ」
「それは……」
容赦なく言い切り、それから少し声を和らげた。
「……それに、あなたが心配なさっていることは、たいてい杞憂ですのよ」
「え?」
「殿下は、あなたが海から来たことを最初からご存じですわ。九年間、一度も態度を変えておられません」
はっと目を見開いた。
「殿下は、あなたが元アザラシだからそばに置いておられるのでも、元アザラシなのに置いておられるのでもございません。ただ、セルキアだから、ですわ」
扇を広げた。
「さて、説教はここまでですわ。隣国語の課題、明日までに提出なさい」
「……はい」
「返事は?」
「ええ!」
「よろしい」
その夜、セルキアは保護院の記録帳を開いた。
六年分の記録が、そこにある。
最初のページは、たどたどしい平仮名だった。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる』
途中から、字が整い始める。
三年目には、簡単な図が描かれるようになった。
五年目には、数字をまとめた表も出てきた。
北湾の事件のページは、細かい字でびっしり埋まっていた。
そして最後のページ。
羽根ペンを取り、新しい行に書き込んだ。
『十四歳、秋。胸が重い。魚が食べられない。原因は不明』
しばらく見つめてから、その下に一行を足した。
『いや、原因はわかっている』
そこでペンが止まった。
書けなかった。
まだ、文字にする勇気がなかった。
記録帳を閉じ、窓の外を見ると、海が月明かりに光っている。
九年前、あの海から来た。
公爵夫妻に拾われ、レオニスに助けられ、マリエッタに叱られ、保護院で育った。
――私は、どこへ行くのでしょう。
答えは、まだ見つからなかった。
だが、行きたい場所だけは、はっきりしていた。
王宮での勉強も続いているが、週に二日は必ずここへ通っている。
それは九年間、一度も途切れなかった習慣だった。
「セルキア様。今日はやけに静かですな」
餌の桶を運ぶバルトが、不思議そうに言う。
「そうでしょうか」
「いつもなら、門をくぐった時点で五番だ七番だと騒いでおられる」
「……すみません」
「謝ることではありませんが」
プールの縁に腰を下ろし、水面を眺めていた。
一頭の若いアザラシが近づいてきて、じっと彼女を見上げる。
「あなたも、私が変だと思いますか」
アザラシは、ぷいと顔を背けて潜っていった。
「……そうですよね」
膝を抱えた。
あの夜から、ずっと考えている。
自分の中に生まれた感情に、名前をつけようとして、そのたびに逃げていた。
――もし、これが恋なら。
恋を知らないわけではない。
物語の中では何度も読んだ。
マリエッタからも「令嬢の嗜みとして」いくつかの詩集を渡されている。
だが、自分がそうなるとは思っていなかった。
――私は、元アザラシです。
その事実が、初めて重く感じられた。
これまで「元アザラシなので!」は、彼女にとって誇りだった。
泳ぎが得意なことも、匂いがわかることも、すべてそこから来ている。
だが、王太子の隣に立つことを考えたとき、それは急に別の意味を持ち始めた。
――どこから来たのかも、わからない生き物です。
公爵家の養女ではある自分には血筋はない。
証明できるものが、何一つない。
「セルキア」
背後から声がした。振り返ると、マリエッタが立っている。
「マリエッタ様」
「今日の隣国語の課題、提出されておりませんわね」
「……忘れていました」
「あなたが提出を忘れるのは、二年で初めてですわ」
マリエッタは隣に腰を下ろした。ドレスが濡れることも気にしていない。
「何をお悩みですの」
「悩んでいません」
「嘘が下手ですわね」
しばらく沈黙が流れた。
二人の間を波の音だけが響く。
「……マリエッタ様」
「ええ」
「私は、王太子妃になれるでしょうか」
マリエッタは、すぐには答えなかった。
「なりたいのですか?」
「わかりません……でも、殿下の隣に、他の方が立つのは嫌です」
言葉に詰まりながら、正直な気持ちを答えた。
「それは、恋ですわね」
「そんな、私は……っ」
あっさりと言われて、セルキアは真っ赤になっていく。
「認めたくないのは、なぜです」
鋭い問いに、セルキアは膝の上で手を握りしめた。
「私は、元アザラシです……」
「存じております」
「血筋も、生まれも、何もわかりません。それに、私が海から来たことを知っている人は、王都にはほとんどいません」
「ええ」
「もし知られたら、殿下のご迷惑になるんじゃないでしょうか」
セルキアの声が震えた。
「っ……殿下は、私を助けてくださいました。私が殿下に返せるのは、恩返しだけです。それ以上を望むのは、図々しいことではありませんか?」
大きな黒目勝ちの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。
「セルキア」
「はい」
「わたくしは、十四歳のとき、あなたを追い出そうといたしました」
「……はい」
「あのとき、わたくしは『王太子妃にふさわしい者』という基準を、母から教わったとおりに信じておりました」
そう言いながら、セルキアの頬を優しく拭うと、彼女は海を見つめた。
「三か国語を話せること。作法を身につけていること。血筋が正しいこと。それらを満たせば、わたくしは価値があるのだと。けれど、わたくしは海に落ちて、五歳のあなたに助けられました」
黙って聞いていた。
マリエッタの口元が、わずかに緩む。
「あのとき、わたくしを助けたのは、血筋でも語学力でもございませんでした。ただ、溺れている者を放っておけないという、あなたの心ですわ」
「……マリエッタ様」
「あなたが図々しいとおっしゃるなら、わたくしはもっと図々しかったことになりますわね。何一つ持たないくせに、資格があると思い込んでおりましたもの」
首を振った。
「そんなことないです!マリエッタ様はいつも私によくしてくれました!」
「同じことですわ」
立ち上がり、スカートの砂を払った。
「セルキア。あなたが自分にふさわしくないと思うのは自由です。ですが、それを決めるのはあなたではありませんわ」
「では、誰が……」
「殿下と、あなた自身の二人ですわ。他の誰でもございません」
その言葉に、顔を上げた。
「……でも、そうですわね。あなたが降りるというのでしたら、わたくしが王太子妃になりますわ」
「っ!!ダメです!!マリエッタ様のことを嫌いになりたくありません!!」
嫌う……?誰かを嫌いだと思ったことなど、セルキアにはなかった。
でも、誰かがあの人の隣に立つと思ったら、その感情を想像できてしまった。
「よろしいこと?あなたが遠慮して身を引いたとして、その結果、殿下が別の方と婚約なさったとします」
「……はい」
「あなたはそれを、心から祝福できますの」
答えられなかった。
「できないのなら、逃げているだけですわ」
「それは……」
容赦なく言い切り、それから少し声を和らげた。
「……それに、あなたが心配なさっていることは、たいてい杞憂ですのよ」
「え?」
「殿下は、あなたが海から来たことを最初からご存じですわ。九年間、一度も態度を変えておられません」
はっと目を見開いた。
「殿下は、あなたが元アザラシだからそばに置いておられるのでも、元アザラシなのに置いておられるのでもございません。ただ、セルキアだから、ですわ」
扇を広げた。
「さて、説教はここまでですわ。隣国語の課題、明日までに提出なさい」
「……はい」
「返事は?」
「ええ!」
「よろしい」
その夜、セルキアは保護院の記録帳を開いた。
六年分の記録が、そこにある。
最初のページは、たどたどしい平仮名だった。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる』
途中から、字が整い始める。
三年目には、簡単な図が描かれるようになった。
五年目には、数字をまとめた表も出てきた。
北湾の事件のページは、細かい字でびっしり埋まっていた。
そして最後のページ。
羽根ペンを取り、新しい行に書き込んだ。
『十四歳、秋。胸が重い。魚が食べられない。原因は不明』
しばらく見つめてから、その下に一行を足した。
『いや、原因はわかっている』
そこでペンが止まった。
書けなかった。
まだ、文字にする勇気がなかった。
記録帳を閉じ、窓の外を見ると、海が月明かりに光っている。
九年前、あの海から来た。
公爵夫妻に拾われ、レオニスに助けられ、マリエッタに叱られ、保護院で育った。
――私は、どこへ行くのでしょう。
答えは、まだ見つからなかった。
だが、行きたい場所だけは、はっきりしていた。



