顔を上げたときには、曲が終わっていた。
二人は礼をして離れる。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえることに気づいた。
その後、レオニスは他の令嬢とも次々と踊り始めた。
使節の関係者や、有力貴族の娘たち。
王太子として、断る理由はない。
壁際に戻ったセルキアは、その光景を見ていた。
美しい令嬢が、レオニスの手を取る。
笑いかける。彼が穏やかに応じる。
――胸が、変です。
自分の胸元を押さえた。
痛いわけではない、苦しいわけでもない……
ただ、何か重いものが沈んでいるような感覚。
――お腹でしょうか。今日はまだ何も食べていません。
そう思って給仕の卓へ向かったが、並んだ料理を見ても食欲が湧かなかった。
「……おかしいです」
魚料理を前にして食欲が湧かないなど、生まれて初めてのことだった。
「あら。どうなさいましたの」
マリエッタが隣に来た。
「マリエッタ様。私、病気かもしれません……」
「症状は?」
「胸が重いです。それから、お魚が食べたくありません」
しゅんとするセルキアの様子を見て、マリエッタは扇を口元に当てた。
こらえ切れず、肩が震え出してしまう。
「マリエッタ様?」
「……いえ。それは、重い病ですわね」
「治りますか!?」
「治りませんわ。一生ものですの」
「一生!?」
真っ青になるセルキアを見て、マリエッタはついに笑い出した。
「ど、どうしたらよいのでしょう!?お父様とお母さまを心配させてしまいます!」
「大丈夫ですわ。命に別状はございません」
「では、何の病気ですか」
「ご自分でお考えなさい」
「マリエッタ様!」
その夜、公爵邸に戻ったセルキアは、なかなか寝つけなかった。
窓を開けると、潮の匂いが入ってくる。
――殿下が、他の方と踊っていました。
それは当然のことだった。
王太子なのだから。
――でも、私は嫌でした。
自分でも驚くほど、はっきりとした感情。
寝台に座り込み、膝を抱えた。
九年前、五歳の自分は「殿下を幸せにします」と宣言した。
それは恩返しのつもりだった。助けてもらったから、返す。
単純な話。
――では、今は?
殿下の役に立ちたい……それは変わらない。
でも、他の誰かが殿下の隣にいるのは嫌だ。
――恩返しなら、誰が隣にいても構わないはずです。
その考えに辿り着いた瞬間、セルキアは顔から火が出そうになった。
「……あ」
毛布を頭からかぶる。
――私、殿下のことを。
その先の言葉を、まだ口にできなかった。
同じ夜、王宮のバルコニーでは、レオニスが夜風に当たっていた。
「レオニス様。冷えますわよ」
マリエッタが上着を持って現れる。
「……マリエッタか」
「今夜のあなた、ずいぶん大人げなくていらっしゃいましたわね」
「何のことだ」
「アルヴィス卿ですわ。あの方、まだ十六歳ですのよ」
答えなかった。
「王太子ともあろう方が、少年相手に威圧なさるとは」
「……悪かったと思っている」
「思っていない顔ですわね」
呆れたように息を吐いた。
「ですが、良い兆しもございましたわ」
「兆し?」
「あの子、初めて胸が苦しいと申しておりましたの」
レオニスの目が、わずかに見開かれた。
「魚を前にして、食欲がないと」
「……セルキアが?」
「ええ。重症ですわね」
いたずらっぽく笑った。
「あと少しですわ、レオニス様」
「……そうか」
夜空を仰いだ。
九年待った。あと一年、あるいは数か月。
その先に何が待っているのか、まだ確信は持てない。
それでも、風が少しだけ、暖かくなった気がした。
翌朝、フォーシール公爵邸の朝食の席では、別の意味で空気が妙だった。
焼き魚がある。
セルキアの好物である。
しかも、今朝港に上がったばかりの新鮮な魚だ。
なのにセルキアは、魚を前にしてぼんやりしていた。
公爵が妻を見る。
夫人も夫を見る。
二人でもう一度、娘を見る。
「セルキア」
「はい」
「魚だぞ」
「……はい」
「今朝のだぞ」
「匂いでわかります」
「なのに食べないのか!?」
公爵がとうとう耐えきれず、身を乗り出した。
「あなた。そこまで驚かなくても」
「この子が魚を前にして動かないんだぞ。医者を呼ぶべきではないか」
「マリエッタ様にも、重い病だと言われました……」
「医者だ!」
「あなたは黙っていらして」
夫人は夫を座らせ、セルキアへ向き直った。
「昨夜、何かあったの?」
「何も……」
「本当に?」
魚へ視線を落とした。
「殿下が、ほかの令嬢と踊っていらっしゃいました」
「まあ」
「王太子なのだから当然――いたっ」
公爵が言いかけたところで、夫人が卓の下でその足を踏んだ。
「あなたは少し、お黙りになって」
「……はい」
二人のやり取りにも気づかず、フォークで魚の身をつつく。
「別に、おかしなことではありません。殿下は王太子です。たくさんの方と踊る必要があります」
「ええ」
「私もわかっています」
「ええ」
「でも、嫌でした」
最後だけ、声が小さくなった。
公爵夫妻はまた顔を見合わせた。
今度は、どちらも口元が少し緩んでいる。
「……何ですか」
「いいえ、何も」
「お父さまも笑っています」
「笑っていないぞ」
「口が笑っています!」
公爵は慌てて口元を手で隠した。
夫人は静かに茶を飲む。
「セルキア。もし、殿下がどなたかと婚約なさったら?」
セルキアの手からフォークが落ちた。
「こ、婚約?」
「王太子殿下なのですもの。いつかはなさるでしょう」
「それは……」
おめでたいことです。
そう言えばいいだけなのに、言葉が出ない。
知らない令嬢がレオニスの隣に立つところを想像した。
毎朝顔を合わせるのも、その人。
夜会で最初に踊るのも、その人。
いつか王妃として隣に立つのも、その人。
胸の奥が、昨日よりもっと重くなった。
「……お魚、食べられません」
「本当に重症だな」
「あなた」
また夫人に睨まれ、公爵が口を閉じる。
「セルキア。無理に答えを出さなくてもいいのよ」
「でも……」
「あなたは、海の異変には誰より早く気づくのに、自分の気持ちには少し時間がかかるようだから」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
夫人は楽しそうに笑った。
やっぱり、わからなかった。
ただ一つわかったのは、このまま王宮にいても考えがまとまりそうにないということだけ。
「私、保護院へ行ってきます!」
「今日は勉強の日では?」
「午後には戻ります!」
椅子から立ち上がり、数歩進んだところでセルキアは戻ってきた。
焼き魚を包んでもらい、今度こそ出ていく。
「食欲はあるのね」
「そこは安心した」
扉が閉じる。
公爵は娘が消えた方向を見ながら、小さく息を吐いた。
「殿下も、長かったな」
「まだですわ。あの子が自分で気づくまで、お待ちになるおつもりなのでしょう」
「……本当に待つ気なのか」
「だから、私たちも余計なことは言わないのです」
そう言いながらも、公爵夫人の顔は少し楽しそうだった。
二人は礼をして離れる。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえることに気づいた。
その後、レオニスは他の令嬢とも次々と踊り始めた。
使節の関係者や、有力貴族の娘たち。
王太子として、断る理由はない。
壁際に戻ったセルキアは、その光景を見ていた。
美しい令嬢が、レオニスの手を取る。
笑いかける。彼が穏やかに応じる。
――胸が、変です。
自分の胸元を押さえた。
痛いわけではない、苦しいわけでもない……
ただ、何か重いものが沈んでいるような感覚。
――お腹でしょうか。今日はまだ何も食べていません。
そう思って給仕の卓へ向かったが、並んだ料理を見ても食欲が湧かなかった。
「……おかしいです」
魚料理を前にして食欲が湧かないなど、生まれて初めてのことだった。
「あら。どうなさいましたの」
マリエッタが隣に来た。
「マリエッタ様。私、病気かもしれません……」
「症状は?」
「胸が重いです。それから、お魚が食べたくありません」
しゅんとするセルキアの様子を見て、マリエッタは扇を口元に当てた。
こらえ切れず、肩が震え出してしまう。
「マリエッタ様?」
「……いえ。それは、重い病ですわね」
「治りますか!?」
「治りませんわ。一生ものですの」
「一生!?」
真っ青になるセルキアを見て、マリエッタはついに笑い出した。
「ど、どうしたらよいのでしょう!?お父様とお母さまを心配させてしまいます!」
「大丈夫ですわ。命に別状はございません」
「では、何の病気ですか」
「ご自分でお考えなさい」
「マリエッタ様!」
その夜、公爵邸に戻ったセルキアは、なかなか寝つけなかった。
窓を開けると、潮の匂いが入ってくる。
――殿下が、他の方と踊っていました。
それは当然のことだった。
王太子なのだから。
――でも、私は嫌でした。
自分でも驚くほど、はっきりとした感情。
寝台に座り込み、膝を抱えた。
九年前、五歳の自分は「殿下を幸せにします」と宣言した。
それは恩返しのつもりだった。助けてもらったから、返す。
単純な話。
――では、今は?
殿下の役に立ちたい……それは変わらない。
でも、他の誰かが殿下の隣にいるのは嫌だ。
――恩返しなら、誰が隣にいても構わないはずです。
その考えに辿り着いた瞬間、セルキアは顔から火が出そうになった。
「……あ」
毛布を頭からかぶる。
――私、殿下のことを。
その先の言葉を、まだ口にできなかった。
同じ夜、王宮のバルコニーでは、レオニスが夜風に当たっていた。
「レオニス様。冷えますわよ」
マリエッタが上着を持って現れる。
「……マリエッタか」
「今夜のあなた、ずいぶん大人げなくていらっしゃいましたわね」
「何のことだ」
「アルヴィス卿ですわ。あの方、まだ十六歳ですのよ」
答えなかった。
「王太子ともあろう方が、少年相手に威圧なさるとは」
「……悪かったと思っている」
「思っていない顔ですわね」
呆れたように息を吐いた。
「ですが、良い兆しもございましたわ」
「兆し?」
「あの子、初めて胸が苦しいと申しておりましたの」
レオニスの目が、わずかに見開かれた。
「魚を前にして、食欲がないと」
「……セルキアが?」
「ええ。重症ですわね」
いたずらっぽく笑った。
「あと少しですわ、レオニス様」
「……そうか」
夜空を仰いだ。
九年待った。あと一年、あるいは数か月。
その先に何が待っているのか、まだ確信は持てない。
それでも、風が少しだけ、暖かくなった気がした。
翌朝、フォーシール公爵邸の朝食の席では、別の意味で空気が妙だった。
焼き魚がある。
セルキアの好物である。
しかも、今朝港に上がったばかりの新鮮な魚だ。
なのにセルキアは、魚を前にしてぼんやりしていた。
公爵が妻を見る。
夫人も夫を見る。
二人でもう一度、娘を見る。
「セルキア」
「はい」
「魚だぞ」
「……はい」
「今朝のだぞ」
「匂いでわかります」
「なのに食べないのか!?」
公爵がとうとう耐えきれず、身を乗り出した。
「あなた。そこまで驚かなくても」
「この子が魚を前にして動かないんだぞ。医者を呼ぶべきではないか」
「マリエッタ様にも、重い病だと言われました……」
「医者だ!」
「あなたは黙っていらして」
夫人は夫を座らせ、セルキアへ向き直った。
「昨夜、何かあったの?」
「何も……」
「本当に?」
魚へ視線を落とした。
「殿下が、ほかの令嬢と踊っていらっしゃいました」
「まあ」
「王太子なのだから当然――いたっ」
公爵が言いかけたところで、夫人が卓の下でその足を踏んだ。
「あなたは少し、お黙りになって」
「……はい」
二人のやり取りにも気づかず、フォークで魚の身をつつく。
「別に、おかしなことではありません。殿下は王太子です。たくさんの方と踊る必要があります」
「ええ」
「私もわかっています」
「ええ」
「でも、嫌でした」
最後だけ、声が小さくなった。
公爵夫妻はまた顔を見合わせた。
今度は、どちらも口元が少し緩んでいる。
「……何ですか」
「いいえ、何も」
「お父さまも笑っています」
「笑っていないぞ」
「口が笑っています!」
公爵は慌てて口元を手で隠した。
夫人は静かに茶を飲む。
「セルキア。もし、殿下がどなたかと婚約なさったら?」
セルキアの手からフォークが落ちた。
「こ、婚約?」
「王太子殿下なのですもの。いつかはなさるでしょう」
「それは……」
おめでたいことです。
そう言えばいいだけなのに、言葉が出ない。
知らない令嬢がレオニスの隣に立つところを想像した。
毎朝顔を合わせるのも、その人。
夜会で最初に踊るのも、その人。
いつか王妃として隣に立つのも、その人。
胸の奥が、昨日よりもっと重くなった。
「……お魚、食べられません」
「本当に重症だな」
「あなた」
また夫人に睨まれ、公爵が口を閉じる。
「セルキア。無理に答えを出さなくてもいいのよ」
「でも……」
「あなたは、海の異変には誰より早く気づくのに、自分の気持ちには少し時間がかかるようだから」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
夫人は楽しそうに笑った。
やっぱり、わからなかった。
ただ一つわかったのは、このまま王宮にいても考えがまとまりそうにないということだけ。
「私、保護院へ行ってきます!」
「今日は勉強の日では?」
「午後には戻ります!」
椅子から立ち上がり、数歩進んだところでセルキアは戻ってきた。
焼き魚を包んでもらい、今度こそ出ていく。
「食欲はあるのね」
「そこは安心した」
扉が閉じる。
公爵は娘が消えた方向を見ながら、小さく息を吐いた。
「殿下も、長かったな」
「まだですわ。あの子が自分で気づくまで、お待ちになるおつもりなのでしょう」
「……本当に待つ気なのか」
「だから、私たちも余計なことは言わないのです」
そう言いながらも、公爵夫人の顔は少し楽しそうだった。



