何気なく言った。
レオニスの動きが止まる。
マリエッタだけが、扇の向こうでにやりと笑った。
「……そうですわね。最初のお相手を殿下が選んでくだされば、ですが」
「殿下、私を選んでください!」
「……君は、本当に何もわかっていないな」
「何がですか?」
「いや。何でもない」
セルキアの頭へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そして代わりに、乱れた髪飾りを指先でそっと直す。
「本番では転ぶなよ」
「転びません!」
そう答えて、セルキアは部屋を出ようとした。
扉の手前で、レオニスが呼び止める。
「セルキア」
「はい?」
「……いや。よく練習した」
「はい!」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、セルキアはさっきの声を思い返していた。
――今、何かおっしゃりかけましたよね。
聞き返せばよかった。
でも、聞き返さなくてよかった気もする。
理由はわからないまま、セルキアは自分の頬を両手で挟んだ。
「……熱いです」
踊ったせいだろうと思うことにした。
その頃、小広間では。
「レオニス様」
「何だ」
「なぜ、途中でおやめになりましたの」
「……何の話だ」
「『よく練習した』の前に、別の言葉がありましたでしょう」
マリエッタは扇を閉じ、容赦なく続けた。
「わたくし、耳は良い方ですのよ」
「聞こえていたなら、聞くな」
「聞こえておりませんわ。ただ、お顔に書いてありましたの」
答えず、窓の外を見た。
「あと一年ですわね」
「……ああ」
「その一年で、あの子が誰かに攫われないとよろしいですが」
「縁起でもないことを言うな」
マリエッタは楽しそうに笑いながら、部屋を出ていった。
セルキアが十四歳になった年の秋、王宮で大きな夜会が開かれることになった。
隣国からの使節を歓待する、公式の場である。
「セルキア。今回は見学ではありませんわ」
支度部屋で、マリエッタが宣言した。
「あなたも正式な招待客として出席なさいます」
「……私が、ですか」
「何のために学んだと思っておりますの」
鏡の前に立たされたセルキアは、自分の姿を見て息を呑んだ。
深い青のドレスは、海の色をしていた。
白銀の髪は結い上げられ、首元には小さな真珠が並んでいる。
控えめだが、上質な仕立てだった。
「……これ、私ですか」
「他に誰がおりますの」
「なんだか、別の人みたいです」
「中身は変わりませんわ。走らなければ、ですけれど」
扇を広げ、セルキアの背筋を軽く叩いた。
「歩幅は狭く。視線はやや上。話しかけられたら、まず名乗る」
「はい!」
「返事は『はい』ではなく『ええ』ですわ」
「え、ええ!」
「……前途多難ですわね」
大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。
セルキアが入室した瞬間、ざわめきが起きた。
「あれが、フォーシール公爵家の……」
「北湾の一件で名を上げた娘か」
「まあ、なんて美しい髪」
視線が一斉に集まる。
背筋を伸ばし、教えられたとおりの歩幅で進んだ。
――大丈夫。歩けています。
心の中でそう唱えながら、壁際まで辿り着いたところで、若い令息が声をかけてきた。
「フォーシール嬢でいらっしゃいますね」
「ええ。セルキア・フォーシールと申します」
「シェリング伯爵家の長男、アルヴィスと申します。よろしければ、一曲お相手願えませんか」
差し出された手を前に、セルキアは一瞬固まった。
――どうしよう。断り方を習ったはずですが。
その時だった。
「アルヴィス卿」
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、レオニスが立っていた。
二十一歳になった王太子は正装をまとい、いつになく威厳のある雰囲気を漂わせている。
「殿下」
アルヴィスが慌てて頭を下げる。
「その手は、下ろしてもらえるか」
穏やかな口調だった。
それでも、逆らえる空気ではなかった。
「……失礼いたしました」
アルヴィスが下がると、レオニスは何事もなかったかのようにセルキアへ向き直った。
「セルキア」
「はい」
「一曲、いいか」
差し出された手を、セルキアは反射的に取った。
その瞬間、大広間のざわめきが一段と大きくなった。
「やはりセルキア嬢だ」
「王太子殿下が自ら手を取られたぞ」
「まだ婚約なさっていないのか?」
「もう時間の問題だろう」
周囲の視線を浴びながら、二人は中央へ進むと、静かに音楽が始まる。
「殿下。私、まだ上手ではありません」
「知っている」
「足を踏むかもしれません」
「踏まれてやる」
「では、遠慮なく踏みます!」
「遠慮はしなさい」
レオニスの手が、セルキアの背に添えられた。
最初の数歩は、確かにぎこちなかった。
うまく導いてくれたので、すぐに流れをつかんだ。
「……あら」
「うまいじゃないか」
「殿下が上手なのです!」
「二人で踊っているんだ。片方だけでは成り立たない」
回転のたびに、青いドレスの裾が広がる。
ふと、レオニスが小さく言った。
「……よく似合っている」
「え?」
「聞こえなかったなら、それでいい」
「聞こえました!」
「では、二度は言わない」
それからしばらく、足元を間違えた。
「セルキア。下を見るな」
「殿下のせいです!」
「俺は何もしていない」
「しました!」
言い返しながらも、視線を上げる。
近い。
ひと月前の練習でも、何度も握った手だった。
それなのに、大勢が見ている今夜は、なぜかあのとき以上に意識してしまう。
――殿下の手は、大きいです。
――どうして、こんなに落ち着かないのでしょう。
曲の終わりが近づいた頃、レオニスがもう一度だけ口を開いた。
「セルキア」
「はい」
「今夜、他の誰かと踊ってもいい」
「え」
「だが、最初は俺だった。それは変わらない」
レオニスの動きが止まる。
マリエッタだけが、扇の向こうでにやりと笑った。
「……そうですわね。最初のお相手を殿下が選んでくだされば、ですが」
「殿下、私を選んでください!」
「……君は、本当に何もわかっていないな」
「何がですか?」
「いや。何でもない」
セルキアの頭へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そして代わりに、乱れた髪飾りを指先でそっと直す。
「本番では転ぶなよ」
「転びません!」
そう答えて、セルキアは部屋を出ようとした。
扉の手前で、レオニスが呼び止める。
「セルキア」
「はい?」
「……いや。よく練習した」
「はい!」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、セルキアはさっきの声を思い返していた。
――今、何かおっしゃりかけましたよね。
聞き返せばよかった。
でも、聞き返さなくてよかった気もする。
理由はわからないまま、セルキアは自分の頬を両手で挟んだ。
「……熱いです」
踊ったせいだろうと思うことにした。
その頃、小広間では。
「レオニス様」
「何だ」
「なぜ、途中でおやめになりましたの」
「……何の話だ」
「『よく練習した』の前に、別の言葉がありましたでしょう」
マリエッタは扇を閉じ、容赦なく続けた。
「わたくし、耳は良い方ですのよ」
「聞こえていたなら、聞くな」
「聞こえておりませんわ。ただ、お顔に書いてありましたの」
答えず、窓の外を見た。
「あと一年ですわね」
「……ああ」
「その一年で、あの子が誰かに攫われないとよろしいですが」
「縁起でもないことを言うな」
マリエッタは楽しそうに笑いながら、部屋を出ていった。
セルキアが十四歳になった年の秋、王宮で大きな夜会が開かれることになった。
隣国からの使節を歓待する、公式の場である。
「セルキア。今回は見学ではありませんわ」
支度部屋で、マリエッタが宣言した。
「あなたも正式な招待客として出席なさいます」
「……私が、ですか」
「何のために学んだと思っておりますの」
鏡の前に立たされたセルキアは、自分の姿を見て息を呑んだ。
深い青のドレスは、海の色をしていた。
白銀の髪は結い上げられ、首元には小さな真珠が並んでいる。
控えめだが、上質な仕立てだった。
「……これ、私ですか」
「他に誰がおりますの」
「なんだか、別の人みたいです」
「中身は変わりませんわ。走らなければ、ですけれど」
扇を広げ、セルキアの背筋を軽く叩いた。
「歩幅は狭く。視線はやや上。話しかけられたら、まず名乗る」
「はい!」
「返事は『はい』ではなく『ええ』ですわ」
「え、ええ!」
「……前途多難ですわね」
大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。
セルキアが入室した瞬間、ざわめきが起きた。
「あれが、フォーシール公爵家の……」
「北湾の一件で名を上げた娘か」
「まあ、なんて美しい髪」
視線が一斉に集まる。
背筋を伸ばし、教えられたとおりの歩幅で進んだ。
――大丈夫。歩けています。
心の中でそう唱えながら、壁際まで辿り着いたところで、若い令息が声をかけてきた。
「フォーシール嬢でいらっしゃいますね」
「ええ。セルキア・フォーシールと申します」
「シェリング伯爵家の長男、アルヴィスと申します。よろしければ、一曲お相手願えませんか」
差し出された手を前に、セルキアは一瞬固まった。
――どうしよう。断り方を習ったはずですが。
その時だった。
「アルヴィス卿」
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、レオニスが立っていた。
二十一歳になった王太子は正装をまとい、いつになく威厳のある雰囲気を漂わせている。
「殿下」
アルヴィスが慌てて頭を下げる。
「その手は、下ろしてもらえるか」
穏やかな口調だった。
それでも、逆らえる空気ではなかった。
「……失礼いたしました」
アルヴィスが下がると、レオニスは何事もなかったかのようにセルキアへ向き直った。
「セルキア」
「はい」
「一曲、いいか」
差し出された手を、セルキアは反射的に取った。
その瞬間、大広間のざわめきが一段と大きくなった。
「やはりセルキア嬢だ」
「王太子殿下が自ら手を取られたぞ」
「まだ婚約なさっていないのか?」
「もう時間の問題だろう」
周囲の視線を浴びながら、二人は中央へ進むと、静かに音楽が始まる。
「殿下。私、まだ上手ではありません」
「知っている」
「足を踏むかもしれません」
「踏まれてやる」
「では、遠慮なく踏みます!」
「遠慮はしなさい」
レオニスの手が、セルキアの背に添えられた。
最初の数歩は、確かにぎこちなかった。
うまく導いてくれたので、すぐに流れをつかんだ。
「……あら」
「うまいじゃないか」
「殿下が上手なのです!」
「二人で踊っているんだ。片方だけでは成り立たない」
回転のたびに、青いドレスの裾が広がる。
ふと、レオニスが小さく言った。
「……よく似合っている」
「え?」
「聞こえなかったなら、それでいい」
「聞こえました!」
「では、二度は言わない」
それからしばらく、足元を間違えた。
「セルキア。下を見るな」
「殿下のせいです!」
「俺は何もしていない」
「しました!」
言い返しながらも、視線を上げる。
近い。
ひと月前の練習でも、何度も握った手だった。
それなのに、大勢が見ている今夜は、なぜかあのとき以上に意識してしまう。
――殿下の手は、大きいです。
――どうして、こんなに落ち着かないのでしょう。
曲の終わりが近づいた頃、レオニスがもう一度だけ口を開いた。
「セルキア」
「はい」
「今夜、他の誰かと踊ってもいい」
「え」
「だが、最初は俺だった。それは変わらない」



