セルキアが十三歳になった春、フォーシール公爵邸に一通の書状が届いた。
王妃が自分で書いた手紙だった。
「……セルキア。あなた、王宮での作法教育を受けることになりましたわ」
公爵夫人が読み上げると、首を傾げた。
「作法は、もう習っております」
「基礎はね。ですが、これは王族に関わる場での作法です」
「保護院で使いますか?」
「使いません」
「では、なぜ……」
困ったように微笑んだ。
「そろそろ、あなたも社交の場に出る年齢だからですよ」
教育係として王宮へ現れたのは、二十二歳になったマリエッタだった。
「マリエッタ様!」
「本日より、あなたの教育を担当いたしますわ」
「保護院のお仕事は?」
「午前中に済ませました」
しれっと答えるマリエッタに、セルキアは目を丸くする。
「では、こちらを」
差し出されたのは、分厚い教本の束だった。
「隣国語の初級、中級。王宮での礼儀作法。舞踏の基礎。それから、貴族家の家系図」
「……全部ですか」
「二年でやり切りますわ」
「二年!?」
「わたくしは十歳で終えました」
「十歳!?」
教本を抱えたまま、しばらく固まっていた。
「マリエッタ様。私、海獣のことなら書けます……」
「存じております」
「では、それでは駄目でしょうか……」
「駄目ですわね」
容赦のない即答だった。
「セルキア。あなたは今、沿岸の民から慕われております」
「はい」
「では、王都の貴族はどうです?隣国の使節は?」
答えられなかった。
「あなたが北湾でなさったことを、あの方々は知りません。知らないまま、『変わった令嬢』として扱いますわ」
「……はい」
「あなたが軽んじられれば、あなたの言葉も軽んじられます。保護院の予算も、分院の設立も、すべてに響くのですわ」
教本の一冊を開いた。
「王太子殿下のおそばにいるのなら、魚の匂いがわかるだけでは駄目なのです」
その言葉に、セルキアの目つきが変わった。
「……わかりました」
「では、始めましょうか」
「はい!」
こうして、地獄の二年間が始まった。
「セルキア。隣国語で自己紹介を」
「ワタクシハ、セルキア・フォーシールデス」
「発音が硬すぎますわ。それでは『わたくしは料理です』と聞こえます」
「なぜですか!?」
「語尾の音が違うのです。もう一度」
午前は語学、午後は礼法。夜は家系図の暗記。
「ヴァルデン侯爵家の現当主は?」
「……えーと、ヴァルデンさま」
「名前です!」
「ヴァルデン・ヴァルデンさま!」
「そんな方はおりませんわ!」
舞踏の練習は、特に苦戦した。
「セルキア。相手の足を踏まないでくださいませ」
「陸の動きは難しいです……」
「水中で踊るつもりですの?」
「水中なら、もっと上手にできます!」
「舞踏会は陸で行われますのよ」
それでも、セルキアは投げ出さなかった。
夜、王宮の一室でランプを灯し、教本を睨む姿を、レオニスは何度も見かけた。
「まだ起きていたのか」
「殿下!」
顔を上げたセルキアの目の下には、うっすら隈ができている。
「……根を詰めすぎだ」
「マリエッタ様が、明日は家系図の試験だと」
「あの人は容赦がないな」
「はい。とても厳しいです」
そう言いながら、セルキアは笑っていた。
「でも、嬉しいのです」
「嬉しい?」
「マリエッタ様は、私が王宮にいてもいい人間になれると思ってくださっているのですよね」
返す言葉を探した。
「……そうだな」
「ですから、頑張ります!」
その健気さに、レオニスは何とも言えない気持ちになった。
彼女は、自分が王宮にふさわしくないと思っている。だから努力している。
――ふさわしくないと思ったことなど、一度もないのに。
だが、それを今言えば、彼女は努力をやめてしまうかもしれない。
マリエッタが与えようとしているものは、彼女自身の武器になるはずだった。
「セルキア」
「はい」
「一つだけ言っておく」
「はい?」
教本の山を見下ろした。
「君が何を学んでも、学ばなくても、君の価値は変わらない」
「……殿下」
「これは、君の価値を上げるための勉強ではない。君の言葉を、より遠くまで届けるための道具だ」
しばらく黙っていた。
それから、こくりと頷いた。
「はい」
「わかったなら、もう寝なさい」
「あと一時間だけ」
「三十分だ」
「四十二分!」
「交渉するな」
結局、レオニスが折れて四十分になった。
半年が過ぎる頃には、セルキアの隣国語は日常会話程度なら通じるようになっていた。
その成果を試す日が、思ったより早くやってきた。
隣国から、海を使った貿易について話し合う使節団が訪れた。
その中に、セルキアと同い年の令嬢がいたのだ。
「エルナ・ローゼンと申します」
栗色の髪を二つに編んだ少女が、少し緊張した顔で礼をする。
使節の娘で、父親について各国を回っているらしい。
セルキアも、習ったばかりの隣国語で挨拶を返した。
「セルキア・フォーシールです。あなたの匂いは、とても良いです!」
隣でマリエッタが固まった。
エルナも目を丸くする。
「……私の、匂い?」
「はい! お花のようで、とても――」
「セルキア」
マリエッタの声が、いつになく冷たい。
「何でしょう」
「今の言い方は、あちらでは口説き文句ですわ」
「え!?」
セルキアの顔から一気に血の気が引いた。
「ち、違います! 私は口説いていません!」
慌てて隣国語で言い直そうとして、さらに舌がもつれる。
「私はあなたを食べたいわけでは――」
「セルキア!」
「今のも違うのですか!?」
ついにエルナが吹き出した。
「ふふっ……大丈夫。わかっています」
王妃が自分で書いた手紙だった。
「……セルキア。あなた、王宮での作法教育を受けることになりましたわ」
公爵夫人が読み上げると、首を傾げた。
「作法は、もう習っております」
「基礎はね。ですが、これは王族に関わる場での作法です」
「保護院で使いますか?」
「使いません」
「では、なぜ……」
困ったように微笑んだ。
「そろそろ、あなたも社交の場に出る年齢だからですよ」
教育係として王宮へ現れたのは、二十二歳になったマリエッタだった。
「マリエッタ様!」
「本日より、あなたの教育を担当いたしますわ」
「保護院のお仕事は?」
「午前中に済ませました」
しれっと答えるマリエッタに、セルキアは目を丸くする。
「では、こちらを」
差し出されたのは、分厚い教本の束だった。
「隣国語の初級、中級。王宮での礼儀作法。舞踏の基礎。それから、貴族家の家系図」
「……全部ですか」
「二年でやり切りますわ」
「二年!?」
「わたくしは十歳で終えました」
「十歳!?」
教本を抱えたまま、しばらく固まっていた。
「マリエッタ様。私、海獣のことなら書けます……」
「存じております」
「では、それでは駄目でしょうか……」
「駄目ですわね」
容赦のない即答だった。
「セルキア。あなたは今、沿岸の民から慕われております」
「はい」
「では、王都の貴族はどうです?隣国の使節は?」
答えられなかった。
「あなたが北湾でなさったことを、あの方々は知りません。知らないまま、『変わった令嬢』として扱いますわ」
「……はい」
「あなたが軽んじられれば、あなたの言葉も軽んじられます。保護院の予算も、分院の設立も、すべてに響くのですわ」
教本の一冊を開いた。
「王太子殿下のおそばにいるのなら、魚の匂いがわかるだけでは駄目なのです」
その言葉に、セルキアの目つきが変わった。
「……わかりました」
「では、始めましょうか」
「はい!」
こうして、地獄の二年間が始まった。
「セルキア。隣国語で自己紹介を」
「ワタクシハ、セルキア・フォーシールデス」
「発音が硬すぎますわ。それでは『わたくしは料理です』と聞こえます」
「なぜですか!?」
「語尾の音が違うのです。もう一度」
午前は語学、午後は礼法。夜は家系図の暗記。
「ヴァルデン侯爵家の現当主は?」
「……えーと、ヴァルデンさま」
「名前です!」
「ヴァルデン・ヴァルデンさま!」
「そんな方はおりませんわ!」
舞踏の練習は、特に苦戦した。
「セルキア。相手の足を踏まないでくださいませ」
「陸の動きは難しいです……」
「水中で踊るつもりですの?」
「水中なら、もっと上手にできます!」
「舞踏会は陸で行われますのよ」
それでも、セルキアは投げ出さなかった。
夜、王宮の一室でランプを灯し、教本を睨む姿を、レオニスは何度も見かけた。
「まだ起きていたのか」
「殿下!」
顔を上げたセルキアの目の下には、うっすら隈ができている。
「……根を詰めすぎだ」
「マリエッタ様が、明日は家系図の試験だと」
「あの人は容赦がないな」
「はい。とても厳しいです」
そう言いながら、セルキアは笑っていた。
「でも、嬉しいのです」
「嬉しい?」
「マリエッタ様は、私が王宮にいてもいい人間になれると思ってくださっているのですよね」
返す言葉を探した。
「……そうだな」
「ですから、頑張ります!」
その健気さに、レオニスは何とも言えない気持ちになった。
彼女は、自分が王宮にふさわしくないと思っている。だから努力している。
――ふさわしくないと思ったことなど、一度もないのに。
だが、それを今言えば、彼女は努力をやめてしまうかもしれない。
マリエッタが与えようとしているものは、彼女自身の武器になるはずだった。
「セルキア」
「はい」
「一つだけ言っておく」
「はい?」
教本の山を見下ろした。
「君が何を学んでも、学ばなくても、君の価値は変わらない」
「……殿下」
「これは、君の価値を上げるための勉強ではない。君の言葉を、より遠くまで届けるための道具だ」
しばらく黙っていた。
それから、こくりと頷いた。
「はい」
「わかったなら、もう寝なさい」
「あと一時間だけ」
「三十分だ」
「四十二分!」
「交渉するな」
結局、レオニスが折れて四十分になった。
半年が過ぎる頃には、セルキアの隣国語は日常会話程度なら通じるようになっていた。
その成果を試す日が、思ったより早くやってきた。
隣国から、海を使った貿易について話し合う使節団が訪れた。
その中に、セルキアと同い年の令嬢がいたのだ。
「エルナ・ローゼンと申します」
栗色の髪を二つに編んだ少女が、少し緊張した顔で礼をする。
使節の娘で、父親について各国を回っているらしい。
セルキアも、習ったばかりの隣国語で挨拶を返した。
「セルキア・フォーシールです。あなたの匂いは、とても良いです!」
隣でマリエッタが固まった。
エルナも目を丸くする。
「……私の、匂い?」
「はい! お花のようで、とても――」
「セルキア」
マリエッタの声が、いつになく冷たい。
「何でしょう」
「今の言い方は、あちらでは口説き文句ですわ」
「え!?」
セルキアの顔から一気に血の気が引いた。
「ち、違います! 私は口説いていません!」
慌てて隣国語で言い直そうとして、さらに舌がもつれる。
「私はあなたを食べたいわけでは――」
「セルキア!」
「今のも違うのですか!?」
ついにエルナが吹き出した。
「ふふっ……大丈夫。わかっています」



