浜辺では、セルキアが子供たちに囲まれていた。
北湾の一件をきっかけに、近隣の村から「あざらし幼稚園を見たい」という声が増えたのだ。
今日は初めての子供向け見学会だった。
「では問題です! この子は元気でしょうか、元気ではないでしょうか!」
セルキアが指したプールでは、若いアザラシが水面にぷかぷか浮いている。
「元気!」
「寝てる!」
「死んでる!?」
「死んでません!」
子供たちが一斉に答え、セルキアが慌てて首を振る。
「よーく見てください。お鼻と、おめめと、泳ぎ方です!」
「わかんない!」
「では匂いを――」
「セルキア」
後ろからレオニスが呼ぶ。
「普通の人間は、君ほど匂いを嗅ぎ分けられない」
「そうでした!」
子供たちがどっと笑った。
その中には、ミナもいた。
弟の体調は少しずつ戻り、今日は弟と一緒に参加している。
「セルキア様。それじゃ、私たちには見分けられないじゃん」
「うーん……」
腕を組み、真剣に考え込んだ。
しばらくすると、急に顔を上げる。
「では、誰でもわかるところだけにしましょう!」
地面へしゃがみ込み、持っていた板へ絵を描き始めた。
「元気な子は、お魚をよく食べます。いつもより食べない日が続いたら注意です」
「それならわかる!」
「泳ぐとき、片方だけに傾いていないか。目を開けにくそうにしていないか。呼吸がいつもより速くないか」
ミナの弟が手を上げた。
「いつもって、どうやって知るの?」
セルキアの手が止まった。
「……毎日、見る?」
「毎日は来られないよ」
「そうですよね」
また考える。
そして今度は、事務室から何枚かの紙を持ってきた。
「では、昨日までの記録と比べます! 職員さんが書いておけば、今日初めて来た人でもわかります」
マリエッタが少し離れたところで、満足そうに頷いた。
「ようやく、記録の意味がおわかりになりましたわね」
「前からわかっています!」
「八歳のとき、『頭の中にあります』とおっしゃった方はどなたでしたかしら」
「昔の私です!」
また笑い声が上がる。
見学会の終わり、ミナがセルキアへ小さな包みを差し出した。
中には干した魚が入っていた。
「これ、お父ちゃんから。保護院のみんなで食べてって」
「ありがとうございます!」
「アザラシの分だからね」
「……一匹くらい」
「セルキア」
「食べません!」
名前を呼ばれただけで、背筋を伸ばした。
帰っていく子供たちを見送りながら、セルキアは手元の板を見つめた。
そこには、誰でも使えるよう、簡単な言葉と絵でまとめた「元気なアザラシの見分け方」が残っていた。
自分だけがわかるのでは、足りない。
誰かに伝わってこそ、助けられる命が増える。
「殿下」
「何だ」
「これ、ちゃんと書き直して、分院にも配っていいでしょうか」
「もちろんだ」
「では、絵も描きます!」
「アザラシはともかく、魚の絵はマリエッタに確認してもらえ」
「なぜですか!」
「前に君が描いた魚は、芋に見えた」
「お魚でした!」
そのやり取りを窓越しに見ていたマリエッタが、くすりと笑う。
「あの子、すっかり先生ですわね」
「ああ」
「レオニス様。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「何だ」
「いつまで、待つおつもりですの」
レオニスの肩が、わずかに動いた。
「……何の話だ」
「とぼけないでくださいませ。この七年、あなたがあの子をどう見ているか、気づいていない者のほうが少ないですわ」
マリエッタは容赦がなかった。
「保護院の職員は全員気づいております。フォーシール公爵も、公爵夫人も。おそらく国王陛下も」
「セルキアは気づいていない」
「そこが問題ですわね」
彼女は帳簿を閉じた。
「あの子は、あなたを恩人として見ております。それ以上の言葉を、まだ持っていないのです」
「わかっている」
「では、なぜ待つのです」
しばらく黙っていた。
「……あの子は、五歳のときに俺に会った」
窓の外で、セルキアが子供の一人を肩車している。歓声が上がる。
「俺が手を伸ばせば、あの子は必ず頷くだろう。断ることを知らない」
「ええ」
「だが、それは選んだことにはならない」
目を伏せた。
「あの子には、自分の意思で選べる年齢になってほしい。俺以外の道もあると知った上で、それでも隣にいたいと思うなら——そのときに、初めて聞く」
長い沈黙のあと、マリエッタは小さく笑った。
「……ずいぶん、遠回りをなさいますのね」
「ああ」
「その間に、他の誰かに攫われても文句は言えませんわよ」
「そのときは、俺の負けだ」
言葉とは裏腹に、レオニスの表情は硬かった。
その夜、王宮に戻ったレオニスを、国王が私室へ呼んだ。
「北湾の件、見事だった」
「恐れ入ります」
「貴族どもを黙らせ、村の信を得た。王太子として申し分ない」
国王は杯を傾け、それから何気ない調子で切り出した。
「ところでレオニス。そろそろ婚約を考えてはどうだ」
レオニスの動きが止まる。
「候補は幾人も上がっておる。だが、おまえが一向に決めぬのでな」
「……父上」
「フォーシール公爵家の娘だろう」
核心を突かれ、レオニスは言葉に詰まった。
「あれは良い娘だ。血筋は公爵家、素性は……まあ、多少変わってはおるが」
「多少どころではありませんが」
「王家に必要なのは、血の正しさより、民に信じられる者だ。あの娘は沿岸の民から慕われておる」
国王は杯を置いた。
「なぜ待つ」
「本人が、自分の意思で選べる年齢になるまで待ちます」
答えは即座だった。
「今の年齢では、俺が望めば断れない。それは、俺が選ばせたことになる」
国王は、しばらく息子を見つめていた。
「……頑固なところは、母親似だな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
笑い、それから真顔に戻った。
「ならば、その日まで待とう。だが、覚えておけ」
「はい」
「待つのも選択だ。待った結果を、他人のせいにするな」
深く頭を下げた。
「承知しております」
窓の外では、冬の星が冴え冴えと輝いていた。
その夜、レオニスは眠る前に、机の引き出しを開けた。
中には、色褪せた青い布の切れ端が入っている。
十二年前、外套の裏地を裂いて、小さな傷口へ巻いたもの。
保護院に残されていたのを、後から譲り受けたものだった。
布を指先でなぞる。
――あと三年。
自分に言い聞かせるように、レオニスは引き出しを閉じた。
北湾の一件をきっかけに、近隣の村から「あざらし幼稚園を見たい」という声が増えたのだ。
今日は初めての子供向け見学会だった。
「では問題です! この子は元気でしょうか、元気ではないでしょうか!」
セルキアが指したプールでは、若いアザラシが水面にぷかぷか浮いている。
「元気!」
「寝てる!」
「死んでる!?」
「死んでません!」
子供たちが一斉に答え、セルキアが慌てて首を振る。
「よーく見てください。お鼻と、おめめと、泳ぎ方です!」
「わかんない!」
「では匂いを――」
「セルキア」
後ろからレオニスが呼ぶ。
「普通の人間は、君ほど匂いを嗅ぎ分けられない」
「そうでした!」
子供たちがどっと笑った。
その中には、ミナもいた。
弟の体調は少しずつ戻り、今日は弟と一緒に参加している。
「セルキア様。それじゃ、私たちには見分けられないじゃん」
「うーん……」
腕を組み、真剣に考え込んだ。
しばらくすると、急に顔を上げる。
「では、誰でもわかるところだけにしましょう!」
地面へしゃがみ込み、持っていた板へ絵を描き始めた。
「元気な子は、お魚をよく食べます。いつもより食べない日が続いたら注意です」
「それならわかる!」
「泳ぐとき、片方だけに傾いていないか。目を開けにくそうにしていないか。呼吸がいつもより速くないか」
ミナの弟が手を上げた。
「いつもって、どうやって知るの?」
セルキアの手が止まった。
「……毎日、見る?」
「毎日は来られないよ」
「そうですよね」
また考える。
そして今度は、事務室から何枚かの紙を持ってきた。
「では、昨日までの記録と比べます! 職員さんが書いておけば、今日初めて来た人でもわかります」
マリエッタが少し離れたところで、満足そうに頷いた。
「ようやく、記録の意味がおわかりになりましたわね」
「前からわかっています!」
「八歳のとき、『頭の中にあります』とおっしゃった方はどなたでしたかしら」
「昔の私です!」
また笑い声が上がる。
見学会の終わり、ミナがセルキアへ小さな包みを差し出した。
中には干した魚が入っていた。
「これ、お父ちゃんから。保護院のみんなで食べてって」
「ありがとうございます!」
「アザラシの分だからね」
「……一匹くらい」
「セルキア」
「食べません!」
名前を呼ばれただけで、背筋を伸ばした。
帰っていく子供たちを見送りながら、セルキアは手元の板を見つめた。
そこには、誰でも使えるよう、簡単な言葉と絵でまとめた「元気なアザラシの見分け方」が残っていた。
自分だけがわかるのでは、足りない。
誰かに伝わってこそ、助けられる命が増える。
「殿下」
「何だ」
「これ、ちゃんと書き直して、分院にも配っていいでしょうか」
「もちろんだ」
「では、絵も描きます!」
「アザラシはともかく、魚の絵はマリエッタに確認してもらえ」
「なぜですか!」
「前に君が描いた魚は、芋に見えた」
「お魚でした!」
そのやり取りを窓越しに見ていたマリエッタが、くすりと笑う。
「あの子、すっかり先生ですわね」
「ああ」
「レオニス様。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「何だ」
「いつまで、待つおつもりですの」
レオニスの肩が、わずかに動いた。
「……何の話だ」
「とぼけないでくださいませ。この七年、あなたがあの子をどう見ているか、気づいていない者のほうが少ないですわ」
マリエッタは容赦がなかった。
「保護院の職員は全員気づいております。フォーシール公爵も、公爵夫人も。おそらく国王陛下も」
「セルキアは気づいていない」
「そこが問題ですわね」
彼女は帳簿を閉じた。
「あの子は、あなたを恩人として見ております。それ以上の言葉を、まだ持っていないのです」
「わかっている」
「では、なぜ待つのです」
しばらく黙っていた。
「……あの子は、五歳のときに俺に会った」
窓の外で、セルキアが子供の一人を肩車している。歓声が上がる。
「俺が手を伸ばせば、あの子は必ず頷くだろう。断ることを知らない」
「ええ」
「だが、それは選んだことにはならない」
目を伏せた。
「あの子には、自分の意思で選べる年齢になってほしい。俺以外の道もあると知った上で、それでも隣にいたいと思うなら——そのときに、初めて聞く」
長い沈黙のあと、マリエッタは小さく笑った。
「……ずいぶん、遠回りをなさいますのね」
「ああ」
「その間に、他の誰かに攫われても文句は言えませんわよ」
「そのときは、俺の負けだ」
言葉とは裏腹に、レオニスの表情は硬かった。
その夜、王宮に戻ったレオニスを、国王が私室へ呼んだ。
「北湾の件、見事だった」
「恐れ入ります」
「貴族どもを黙らせ、村の信を得た。王太子として申し分ない」
国王は杯を傾け、それから何気ない調子で切り出した。
「ところでレオニス。そろそろ婚約を考えてはどうだ」
レオニスの動きが止まる。
「候補は幾人も上がっておる。だが、おまえが一向に決めぬのでな」
「……父上」
「フォーシール公爵家の娘だろう」
核心を突かれ、レオニスは言葉に詰まった。
「あれは良い娘だ。血筋は公爵家、素性は……まあ、多少変わってはおるが」
「多少どころではありませんが」
「王家に必要なのは、血の正しさより、民に信じられる者だ。あの娘は沿岸の民から慕われておる」
国王は杯を置いた。
「なぜ待つ」
「本人が、自分の意思で選べる年齢になるまで待ちます」
答えは即座だった。
「今の年齢では、俺が望めば断れない。それは、俺が選ばせたことになる」
国王は、しばらく息子を見つめていた。
「……頑固なところは、母親似だな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
笑い、それから真顔に戻った。
「ならば、その日まで待とう。だが、覚えておけ」
「はい」
「待つのも選択だ。待った結果を、他人のせいにするな」
深く頭を下げた。
「承知しております」
窓の外では、冬の星が冴え冴えと輝いていた。
その夜、レオニスは眠る前に、机の引き出しを開けた。
中には、色褪せた青い布の切れ端が入っている。
十二年前、外套の裏地を裂いて、小さな傷口へ巻いたもの。
保護院に残されていたのを、後から譲り受けたものだった。
布を指先でなぞる。
――あと三年。
自分に言い聞かせるように、レオニスは引き出しを閉じた。



