決定が下されたのは、その日の夕刻のこと。
しかし、事はそれで終わらなかった。
改修工事が始まって間もなく、保護院に急報が入る。
「殿下!製錬所の下流で、大量の魚が浮いております!」
駆けつけると、浜辺には無数の魚が打ち上げられていた。
腹を見せ、動かない。
「工事の途中で、汚れた水をためていた槽の底が抜けたようです」
「溜まっていたものが、一気に流れ出たのか」
最悪の事故。
しかも、その海域には——
「アザラシの群れがいます!」
セルキアが叫んだ。
「三十頭ほど。まだ気づいていません、こちらへ来ます!」
「追い払えるか」
「やってみます!」
言うが早いか、セルキアは海へ飛び込んだ。
「セルキア!」
レオニスが叫ぶ間もなく、白い身体が波を切って進んでいく。
群れの前方へ回り込み、水中で何かを叫んだ。
――低く、鋭い鳴き声。
群れが止まった。
先頭にいた大きな個体が、身を翻す。
それに続いて、群れ全体が向きを変えた。
汚れた海を避け、東の岩場へ回っていく。
「……追い払った」
バルトが呆然と呟いた。
「何と言ったのですかな」
「危険を知らせる鳴き声だと思います」
濡れたまま舟へ引き上げられたセルキアが、息を切らしながら答える。
「アザラシは、危ないときにああ鳴きます。私も、昔よく聞きました」
レオニスは水筒の栓を抜き、真っ先にセルキアの口元へ差し出した。
「すすげ」
「殿下、それより群れが——」
「先にすすげ」
逆らえない声だった。
セルキアが素直に従い、四度すすいで吐き出すのを見届けてから、レオニスはようやく毛布を広げた。
そして、そのまま強く抱き寄せる。
「無事か」
「はい」
「……よくやった」
その腕の力に、目を瞬かせた。
「殿下、少し痛いです」
「すまない」
だが、腕は緩まなかった。
「殿下?」
「……もう少しだけ、こうさせてくれ」
それ以上、何も言わなかった。
濡れた髪から滴が落ち、レオニスの上着に染みを作っていく。
波の音だけが、二人を包んでいた。
事故から半年が過ぎた。
工事は終わり、製錬所の汚れた水は、新しい設備できれいにしてから海へ流されるようになった。
王家が費用の三分の一を払ったことで、残りを負担する者たちも渋々従った。
だが、汚れた海底がすぐに元へ戻るわけではない。
「回復には、数年かかりますな」
バルトが浜辺で呟く。
「積もったものは、そう簡単には消えません」
「だが、これ以上は増えない」
レオニスが応じた。
「増えないというだけで、大きな違いだ」
その年の秋、北湾の一角で小さな変化が見つかった。
「殿下!海藻が生えています!」
浜から駆けてきたセルキアが、濡れた手に緑の切れ端を握っている。
十二歳になった彼女は、以前より背が伸び、腕にも力がついていた。
「浅いところですが、確かに新しい芽です!」
「本当か」
「はい!それから、小さな貝も戻ってきています!」
息を弾ませながら報告する。
この一年半、セルキアはずっと気を張っていた。
今ようやく、その顔が少し緩んだ。
その手にある海藻を見つめた。
たった一本の、小さな緑。
けれど、この一本を見るまでに長い時間がかかった。
二十日間の調査。荒れた会議。村で浴びた怒鳴り声。そして、事故の日の恐怖。
「セルキア」
「はい」
「君が最初に『匂いが違う』と言わなければ、誰も気づかなかった」
「私だけの手柄ではありません」
「わかっている。だが、始まりは君だった」
照れくさそうに視線を逸らし、それから思い出したように顔を上げた。
「殿下。あの村の子は、どうなりましたか」
「治療を受けている。医師の話では、この年齢なら回復が見込めるそうだ」
「よかったです……」
深く息を吐くセルキアの横で、レオニスも肩の力を抜いた。
その冬、沿岸五村から、王宮へ新たな書状が届いた。
以前のような、保護院を小さくしてほしいという手紙ではなかった。
『王立海洋動物保護院の存続を望む』
署名は、四百を超えていた。
以前、縮小を求めて署名した者たちの名も、そのまま並んでいる。
「……立場が逆転しましたわね」
マリエッタが、しみじみと書状を見ながら言った。
「あの村の方々、保護院へ魚を届けてくださるようになりましたのよ」
「金を取らずにか」
「『アザラシは俺たちの見張り番だ』と申しておりました」
思わず笑った。
「見張り番か」
「海がおかしくなれば、まずアザラシが倒れる。だから、あいつらを見ていれば、自分たちの海の様子がわかるのだと」
それは、レオニスが七年前に会議室で説明し、誰にも理解されなかったことだった。
傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかる。
漁師たちの生活を守るための調査でもある——と。
あのとき冷笑した貴族たちではなく、現場の漁師たちが、それを自分の言葉で言い始めていた。
「殿下」
マリエッタが、めずらしく改まった調子で言った。
「あなたは、正しかったのですわ」
「俺一人ではない」
「ええ。ですが、誰にも理解されなかった七年間、あなたは折れませんでした。それは、あなただけの功績です」
答えなかった。ただ、窓の外に目を向けた。
しかし、事はそれで終わらなかった。
改修工事が始まって間もなく、保護院に急報が入る。
「殿下!製錬所の下流で、大量の魚が浮いております!」
駆けつけると、浜辺には無数の魚が打ち上げられていた。
腹を見せ、動かない。
「工事の途中で、汚れた水をためていた槽の底が抜けたようです」
「溜まっていたものが、一気に流れ出たのか」
最悪の事故。
しかも、その海域には——
「アザラシの群れがいます!」
セルキアが叫んだ。
「三十頭ほど。まだ気づいていません、こちらへ来ます!」
「追い払えるか」
「やってみます!」
言うが早いか、セルキアは海へ飛び込んだ。
「セルキア!」
レオニスが叫ぶ間もなく、白い身体が波を切って進んでいく。
群れの前方へ回り込み、水中で何かを叫んだ。
――低く、鋭い鳴き声。
群れが止まった。
先頭にいた大きな個体が、身を翻す。
それに続いて、群れ全体が向きを変えた。
汚れた海を避け、東の岩場へ回っていく。
「……追い払った」
バルトが呆然と呟いた。
「何と言ったのですかな」
「危険を知らせる鳴き声だと思います」
濡れたまま舟へ引き上げられたセルキアが、息を切らしながら答える。
「アザラシは、危ないときにああ鳴きます。私も、昔よく聞きました」
レオニスは水筒の栓を抜き、真っ先にセルキアの口元へ差し出した。
「すすげ」
「殿下、それより群れが——」
「先にすすげ」
逆らえない声だった。
セルキアが素直に従い、四度すすいで吐き出すのを見届けてから、レオニスはようやく毛布を広げた。
そして、そのまま強く抱き寄せる。
「無事か」
「はい」
「……よくやった」
その腕の力に、目を瞬かせた。
「殿下、少し痛いです」
「すまない」
だが、腕は緩まなかった。
「殿下?」
「……もう少しだけ、こうさせてくれ」
それ以上、何も言わなかった。
濡れた髪から滴が落ち、レオニスの上着に染みを作っていく。
波の音だけが、二人を包んでいた。
事故から半年が過ぎた。
工事は終わり、製錬所の汚れた水は、新しい設備できれいにしてから海へ流されるようになった。
王家が費用の三分の一を払ったことで、残りを負担する者たちも渋々従った。
だが、汚れた海底がすぐに元へ戻るわけではない。
「回復には、数年かかりますな」
バルトが浜辺で呟く。
「積もったものは、そう簡単には消えません」
「だが、これ以上は増えない」
レオニスが応じた。
「増えないというだけで、大きな違いだ」
その年の秋、北湾の一角で小さな変化が見つかった。
「殿下!海藻が生えています!」
浜から駆けてきたセルキアが、濡れた手に緑の切れ端を握っている。
十二歳になった彼女は、以前より背が伸び、腕にも力がついていた。
「浅いところですが、確かに新しい芽です!」
「本当か」
「はい!それから、小さな貝も戻ってきています!」
息を弾ませながら報告する。
この一年半、セルキアはずっと気を張っていた。
今ようやく、その顔が少し緩んだ。
その手にある海藻を見つめた。
たった一本の、小さな緑。
けれど、この一本を見るまでに長い時間がかかった。
二十日間の調査。荒れた会議。村で浴びた怒鳴り声。そして、事故の日の恐怖。
「セルキア」
「はい」
「君が最初に『匂いが違う』と言わなければ、誰も気づかなかった」
「私だけの手柄ではありません」
「わかっている。だが、始まりは君だった」
照れくさそうに視線を逸らし、それから思い出したように顔を上げた。
「殿下。あの村の子は、どうなりましたか」
「治療を受けている。医師の話では、この年齢なら回復が見込めるそうだ」
「よかったです……」
深く息を吐くセルキアの横で、レオニスも肩の力を抜いた。
その冬、沿岸五村から、王宮へ新たな書状が届いた。
以前のような、保護院を小さくしてほしいという手紙ではなかった。
『王立海洋動物保護院の存続を望む』
署名は、四百を超えていた。
以前、縮小を求めて署名した者たちの名も、そのまま並んでいる。
「……立場が逆転しましたわね」
マリエッタが、しみじみと書状を見ながら言った。
「あの村の方々、保護院へ魚を届けてくださるようになりましたのよ」
「金を取らずにか」
「『アザラシは俺たちの見張り番だ』と申しておりました」
思わず笑った。
「見張り番か」
「海がおかしくなれば、まずアザラシが倒れる。だから、あいつらを見ていれば、自分たちの海の様子がわかるのだと」
それは、レオニスが七年前に会議室で説明し、誰にも理解されなかったことだった。
傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかる。
漁師たちの生活を守るための調査でもある——と。
あのとき冷笑した貴族たちではなく、現場の漁師たちが、それを自分の言葉で言い始めていた。
「殿下」
マリエッタが、めずらしく改まった調子で言った。
「あなたは、正しかったのですわ」
「俺一人ではない」
「ええ。ですが、誰にも理解されなかった七年間、あなたは折れませんでした。それは、あなただけの功績です」
答えなかった。ただ、窓の外に目を向けた。



