調査は、二十日に及んだ。
北湾の地図に、いくつも印をつける。
その場所へ舟で行き、海の底の泥を少しずつ集めていく。
今日も。明日も。その次の日も。
派手さはない。けれど、一つでも抜ければ証拠が弱くなる。
潜るのは一日に三度まで。
上がれば必ず真水で全身を洗い、口をすすぐ。
レオニスが決めた手順を、一度も破らなかった。
――ただし、十九日目を除いて。
「殿下。もう一度潜れます」
「駄目だ」
「まだ体力はあります!」
「体力の話をしていない」
その日は既に三度潜ったあとだった。
食い下がったが、レオニスは首を縦に振らない。
「あと一か所だけです。明日にすれば、また一日かかります」
「一日で済むなら安いものだ」
「でも——」
「セルキア」
低い声に、セルキアの言葉が止まる。
「君は今、自分の身体のことを勘定に入れていない」
結局その日は、そこで舟を戻した。
悔しそうに舟底を睨むセルキアの背中へ、バルトが声をかける。
「セルキア様。ご自分で書かれた決まりを、お忘れですかな」
「……何のことでしょう」
「二年前、嵐の日に書き足された一行ですよ」
口を尖らせ、それから小さく呟いた。
「……『じぶんだけは大丈夫、と思わない』」
「ようございます」
翌日、最後の一か所を終えたとき、セルキアは自分から水筒を手に取った。
言われる前にすすいだのは、これが初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「昨日は、すみませんでした」
「謝ることではない」
「でも、殿下のお顔が怖かったです」
「……そうか」
少し黙ってから、続けた。
「君が海へ入るたび、俺は綱を握っている。あれは、思っているより重い」
目を瞬かせた。
「重いですか? 私、そんなに太っていません!」
「そういう話ではない」
「十四か所目、終わりました!」
「記録しましたわ。次は、もう少し北です」
舟の上で、マリエッタが記録帳に数値を書き込んでいく。
会計で身につけた細かさが、こういう作業ではとても役に立った。
そして水中では、セルキアが動いていた。
「殿下。ここ、少し深いです」
「潜れるか」
「はい」
命綱を確かめ、セルキアが海へ消える。
通常の潜水夫では届かない深さと、濁った視界。
だがセルキアは、匂いと感覚だけで、汚れの濃い場所を見つけていく。
「セルキア様の採取した箇所は、外れがありませんな」
舟を操る老職員のバルトが、感嘆の声を漏らす。
「同じ地点でも、我々が適当に掬うと薄い泥ばかりです。あの方は、必ず一番濃いところを持ってくる」
「どうしてわかるのか、俺にも説明できない」
レオニスは水面を見つめたまま答えた。
二十日目、すべての採取が終わった。
保護院の大机に、地図が広げられる。
場所ごとの結果を、金属の多さに合わせて色分けしていく。
「殿下。塗り終わりましたわ」
一歩下がり、三人で地図を覗き込む。
色は、誰が見てもわかる形を描いていた。
北湾のいちばん奥――製錬所の排水口のそばが、もっとも濃い。
そこから離れるほど色は薄くなり、湾の外ではほとんど出ていなかった。
「……源は、ここだ」
レオニスの指が、排水口を指した。
「言い逃れはできませんわね。自然に流れ出たものなら、排水口を真ん中にして、こんなにきれいな輪の形にはなりません」
「鉱山から流れ出たなら、川の出口を真ん中にして広がるはずだ。だが、川の出口の数値は低い」
証拠は、揃った。
だが、マリエッタの表情は硬いまま。
「レオニス様。ご覚悟はおありですか」
「何のことだ」
「あの製錬所に、お金を出している者たちですわ」
彼女は帳簿の一冊を取り出し、あるページを開いた。
「王都の商会が三分の一。残りは、貴族の名義です。……ヴァルデン侯爵家、シェリング伯爵家、それから」
一瞬、口をつぐんだ。
「わたくしの、母方の実家ですわ」
「……マリエッタ」
「隠すつもりはございません。帳簿を洗っていて、気づきました」
彼女は顔を上げた。その目は、逃げていなかった。
「わたくしは保護院の会計責任者です。この報告を握り潰せば、実家は守れます。けれど……あの村の子供が、腹を壊しております。守るべきものを間違えるつもりはありませんわ」
地図の上の濃い色を見下ろす。
レオニスは静かに頷いた。
「……六年前、君は俺に言ったな。『助けられた命が、また誰かを助けることもある』と」
「覚えておりますわ」
「君は今、それを実践している」
目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「褒めても、報告書の期日は延ばしませんわよ」
「延ばしてくれとは言っていない」
王宮での審議は、荒れた。
「証拠が不十分である!」
「王太子殿下は、獣を守るために正当な産業を潰すおつもりか!」
製錬所にお金を出している貴族たちが、次々に立ち上がる。
「金属の供給が止まれば、王都の建設も、武具の生産も滞ります。それでもよろしいのですか」
「止めるとは言っていない」
静かに応じた。
「汚れた水をきれいにする設備を直してほしいと言っている。製錬所そのものを止めろとは言っていない」
「設備には莫大な費用がかかります!」
「では、その費用と、沿岸五村の漁業と、村人の健康を天秤にかけるのですか」
場が静まる。
「私は数字を持ってきた」
地図と調べた結果を掲げた。
「金属が一番多かった場所。海藻や貝が死んだ場所。弱ったアザラシたちが食べていたもの。そして、村の医師の報告」
最後の一枚をめくる。
「王都の医師が、あの村の子供を診た。金属による中毒の初期症状が出ているそうだ」
どよめきが広がっていく。
「これが続けば、次に倒れるのは大人だ。働き手を失った村は、税を納められなくなる。産業を守ったつもりで、国は損をする」
貴族たちを見回した。
「私は、誰かを罰したいのではない。海を元に戻したいだけだ」
長い沈黙のあと、国王が口を開いた。
「……レオニス」
「はい、父上」
「その改修費用、どこから出す」
「三分の一を王家が負担します」
場がざわめいた。
「残りは、製錬所にお金を出している者たちに負担してもらいます。ただし利子は取りません。長い時間をかけて返せるようにします。潰すつもりはない、と申し上げたとおりです」
国王は、しばらく息子を見つめていた。
「よかろう。審議を通す」
北湾の地図に、いくつも印をつける。
その場所へ舟で行き、海の底の泥を少しずつ集めていく。
今日も。明日も。その次の日も。
派手さはない。けれど、一つでも抜ければ証拠が弱くなる。
潜るのは一日に三度まで。
上がれば必ず真水で全身を洗い、口をすすぐ。
レオニスが決めた手順を、一度も破らなかった。
――ただし、十九日目を除いて。
「殿下。もう一度潜れます」
「駄目だ」
「まだ体力はあります!」
「体力の話をしていない」
その日は既に三度潜ったあとだった。
食い下がったが、レオニスは首を縦に振らない。
「あと一か所だけです。明日にすれば、また一日かかります」
「一日で済むなら安いものだ」
「でも——」
「セルキア」
低い声に、セルキアの言葉が止まる。
「君は今、自分の身体のことを勘定に入れていない」
結局その日は、そこで舟を戻した。
悔しそうに舟底を睨むセルキアの背中へ、バルトが声をかける。
「セルキア様。ご自分で書かれた決まりを、お忘れですかな」
「……何のことでしょう」
「二年前、嵐の日に書き足された一行ですよ」
口を尖らせ、それから小さく呟いた。
「……『じぶんだけは大丈夫、と思わない』」
「ようございます」
翌日、最後の一か所を終えたとき、セルキアは自分から水筒を手に取った。
言われる前にすすいだのは、これが初めてだった。
「殿下」
「何だ」
「昨日は、すみませんでした」
「謝ることではない」
「でも、殿下のお顔が怖かったです」
「……そうか」
少し黙ってから、続けた。
「君が海へ入るたび、俺は綱を握っている。あれは、思っているより重い」
目を瞬かせた。
「重いですか? 私、そんなに太っていません!」
「そういう話ではない」
「十四か所目、終わりました!」
「記録しましたわ。次は、もう少し北です」
舟の上で、マリエッタが記録帳に数値を書き込んでいく。
会計で身につけた細かさが、こういう作業ではとても役に立った。
そして水中では、セルキアが動いていた。
「殿下。ここ、少し深いです」
「潜れるか」
「はい」
命綱を確かめ、セルキアが海へ消える。
通常の潜水夫では届かない深さと、濁った視界。
だがセルキアは、匂いと感覚だけで、汚れの濃い場所を見つけていく。
「セルキア様の採取した箇所は、外れがありませんな」
舟を操る老職員のバルトが、感嘆の声を漏らす。
「同じ地点でも、我々が適当に掬うと薄い泥ばかりです。あの方は、必ず一番濃いところを持ってくる」
「どうしてわかるのか、俺にも説明できない」
レオニスは水面を見つめたまま答えた。
二十日目、すべての採取が終わった。
保護院の大机に、地図が広げられる。
場所ごとの結果を、金属の多さに合わせて色分けしていく。
「殿下。塗り終わりましたわ」
一歩下がり、三人で地図を覗き込む。
色は、誰が見てもわかる形を描いていた。
北湾のいちばん奥――製錬所の排水口のそばが、もっとも濃い。
そこから離れるほど色は薄くなり、湾の外ではほとんど出ていなかった。
「……源は、ここだ」
レオニスの指が、排水口を指した。
「言い逃れはできませんわね。自然に流れ出たものなら、排水口を真ん中にして、こんなにきれいな輪の形にはなりません」
「鉱山から流れ出たなら、川の出口を真ん中にして広がるはずだ。だが、川の出口の数値は低い」
証拠は、揃った。
だが、マリエッタの表情は硬いまま。
「レオニス様。ご覚悟はおありですか」
「何のことだ」
「あの製錬所に、お金を出している者たちですわ」
彼女は帳簿の一冊を取り出し、あるページを開いた。
「王都の商会が三分の一。残りは、貴族の名義です。……ヴァルデン侯爵家、シェリング伯爵家、それから」
一瞬、口をつぐんだ。
「わたくしの、母方の実家ですわ」
「……マリエッタ」
「隠すつもりはございません。帳簿を洗っていて、気づきました」
彼女は顔を上げた。その目は、逃げていなかった。
「わたくしは保護院の会計責任者です。この報告を握り潰せば、実家は守れます。けれど……あの村の子供が、腹を壊しております。守るべきものを間違えるつもりはありませんわ」
地図の上の濃い色を見下ろす。
レオニスは静かに頷いた。
「……六年前、君は俺に言ったな。『助けられた命が、また誰かを助けることもある』と」
「覚えておりますわ」
「君は今、それを実践している」
目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「褒めても、報告書の期日は延ばしませんわよ」
「延ばしてくれとは言っていない」
王宮での審議は、荒れた。
「証拠が不十分である!」
「王太子殿下は、獣を守るために正当な産業を潰すおつもりか!」
製錬所にお金を出している貴族たちが、次々に立ち上がる。
「金属の供給が止まれば、王都の建設も、武具の生産も滞ります。それでもよろしいのですか」
「止めるとは言っていない」
静かに応じた。
「汚れた水をきれいにする設備を直してほしいと言っている。製錬所そのものを止めろとは言っていない」
「設備には莫大な費用がかかります!」
「では、その費用と、沿岸五村の漁業と、村人の健康を天秤にかけるのですか」
場が静まる。
「私は数字を持ってきた」
地図と調べた結果を掲げた。
「金属が一番多かった場所。海藻や貝が死んだ場所。弱ったアザラシたちが食べていたもの。そして、村の医師の報告」
最後の一枚をめくる。
「王都の医師が、あの村の子供を診た。金属による中毒の初期症状が出ているそうだ」
どよめきが広がっていく。
「これが続けば、次に倒れるのは大人だ。働き手を失った村は、税を納められなくなる。産業を守ったつもりで、国は損をする」
貴族たちを見回した。
「私は、誰かを罰したいのではない。海を元に戻したいだけだ」
長い沈黙のあと、国王が口を開いた。
「……レオニス」
「はい、父上」
「その改修費用、どこから出す」
「三分の一を王家が負担します」
場がざわめいた。
「残りは、製錬所にお金を出している者たちに負担してもらいます。ただし利子は取りません。長い時間をかけて返せるようにします。潰すつもりはない、と申し上げたとおりです」
国王は、しばらく息子を見つめていた。
「よかろう。審議を通す」



