高嶺の和装紳士は、私の前だけで牙を剥く。〜「お前がいないと、一文字も書けない」天才書道家の危険な共依存〜

「は? あなた、手足ついてるんだから墨くらい自分ですったらどうですか? 私は家政婦であって、あなたの奴隷じゃないんですけど」

静まり返ったアトリエに、私の冷え切った声がパチリと弾けるように響いた。
初対面の、それも日本を代表するような名家の御曹司に対して、これ以上ない無礼で不敬な態度。
私の心臓は、エプロンの下で今にも破裂しそうなくらい激しく警鐘を鳴らしている。

(これでいい……。これで、絶対に一発クビになるはず……!)

ポケットの奥に隠した、薄い一冊のノート。
そこには、烏丸家を失脚させようと目論む親戚から脅されて渡された、【漣を精神的に追い詰め、スランプに陥らせるクズ役】としての私のシナリオが書かれている。
逆らえば、多額の借金を抱えた私の家族がどうなるか分からない。
だから私は、初日から全力で「嫌われ者」の悪役を演じきらなければならなかった。

普通のまともな人間なら、今の一言で激怒して「今すぐこの屋敷から出ていけ!」と怒鳴り散らすはず。
私は、漣の美しい顔が怒りで歪む瞬間を待ち構え、わざと傲慢に顎を引いて彼を睨みつけ続けた。
なのに。

「……っ、あ……」

漣は怒るどころか、細長い目を見開いたまま、石のように硬直して私を凝視した。
完璧だったはずの「和装紳士」の仮面が、その美しい顔から剥ぎ取られていく。
長い前髪の隙間から覗く、吸い込まれそうなほど綺麗な漆黒の瞳。
それが、嘘みたいに激しく、狂おしく揺れ始めている。
怒りではない。
それはまるで、暗闇の中でずっと探していた唯一の光を、奇跡的に見つけてしまったかのような、圧倒的な衝撃に打たれた顔だった。

「お前……、お前、なのか……? やっと、会えた……」

「へ? ちょっと、漣様……っ!?」

次の瞬間、漣はソファから弾かれたように立ち上がった。
端正な着物の裾を大きく揺らし、ものすごい勢いで私との距離を詰めてくる。
あまりの気迫に一歩後ろへ退こうとした私の手首を、彼の白く長い指先が、ガシリと容赦なく掴み取った。

「っ、痛……っ、離して……!」

「離さない。二度と離すわけないだろ……!」

抵抗する私の力なんて、大人の男の力の前には全く意味をなさなかった。
グイと強引に腕を引っ張られ、私の身体はバランスを崩してソファの上へと転がり込む。
ドサリとスプリングが沈む音と同時に、私の視界は、はだけた彼の黒い着物と、露わになった白い胸元で埋め尽くされた。
一瞬にして、お屋敷の奥深い格式高さを物語る高級な墨の香りと、彼が密かに燻らせている甘い煙草の匂いに、全身を包み込まれる。

「な、何をするんですか……っ! 最低、触らないで……っ!」

必死に彼の胸元を両手で突き飛ばそうとする。
早くクビになりたい一心で、これ以上ない嫌悪感を顔いっぱいに浮かべて睨みつけた。
だけど、至近距離で私を組み敷く漣の顔は、見る見るうちに切なげに、どこか歪んだ色気を帯びて歪んでいく。
そして私は、私の手首を掴んでいる彼の大きな右手が、嘘みたいに細かく、ガチガチと激しく震えていることに気がついた。

(え……? この人、手が、震えてる……?)

世界を魅了する天才書道家。
その命とも言える右手が、まるで怯える子供のように震えている。
私の冷たい暴言を浴び、拒絶されているというのに、漣は私の首筋に深く顔を埋め、吸い込むように熱い吐息を吹きかけてきた。

「……お前が俺を見てないと、俺、もう一文字も書けなくなる」

低く、ダウナーな地声が、鼓膜を直接震わせる。
そこにはテレビで見せるような爽やかさは微塵もなく、執着と、飢餓感に満ちた本性が剥き出しになっていた。

「お前は俺の道具。俺の共犯者。……だから、一生俺のそばで溺れてろ」

初対面のはずなのに、出会ったその瞬間に、私なしでは呼吸すらできなくなってしまった天才。
早く嫌われて逃げ出したい私の「台本」は、潜入初日にして、彼の歪んだ独占欲によって完全に引き裂かれようとしていた――。