四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

夕方。

「あまなぎ」の奥にある家に、玄関の開く音がした。

「ただいま!」

「おかえり、蒼くん」

仕事から帰ってきた蒼は、朝からずっと変わらない、満面の笑みを浮かべていた。

「夕凪さん!」

「ん?」

「出しに行こう!」

「婚姻届?」

「うん!」

蒼は嬉しそうに頷いた。

「朝からずっと楽しみにしてました」

「ふふ。分かったよ」

夕凪は婚姻届をバッグに大切にしまった。

二人で玄関へ向かう。

「忘れ物ない?」

「大丈夫です」

「じゃあ、行こうか」

「はい!」

夕凪が玄関の鍵を閉める。

そのときだった。

「ゆうちゃん!」

後ろから、聞き慣れた声がした。

夕凪が振り返る。

「しずくちゃん?」

そこには、しずくちゃんが立っていた。

「どうしたの?」

「会いたくて来たの」

しずくちゃんは、にこにこしながら夕凪のところへ駆け寄ってきた。

「そっかぁ」

夕凪はしゃがんで、しずくちゃんの目線に合わせる。

「でもね、ゆうちゃん、今から出ちゃうから今日はもういないんだ」

「そうなの?」

「うん。ちょっと大事な用事があるの」

しずくちゃんは少し残念そうな顔をする。

夕凪は優しく笑った。

「明日来たら、ケーキ待ってるからね」

「ケーキ?」

しずくちゃんの顔がぱっと明るくなる。

「うん。しずくちゃんの好きなケーキ、用意しておくね」

「やったー!」

「じゃあ、また明日ね」

「また明日!」

しずくちゃんは嬉しそうに手を振った。

「気をつけて帰ってね」

「はーい!」

二人もしずくちゃんに手を振った。

姿が見えなくなってから、蒼が笑う。

「夕凪さん、明日は大変ですね」

「ふふ。ケーキ作らなきゃね」

「しずくちゃん、楽しみにしてそう」

「うん」

二人は歩き始めた。

しばらくすると、前方に見慣れた建物が見えてきた。

蒼がその建物を見て、少し照れたように笑う。

「……あれ、津久見市役所ですよね」

「そうだね」

「僕の会社です」

夕凪も笑った。

「そうだったね」

「まさか、自分が働いてる市役所に……」

蒼はバッグの中に入っている婚姻届を見た。

「婚姻届を出しに行くことになるとは思いませんでした」

「私も」

「なんか、ちょっと恥ずかしいです」

「蒼くん、普段ここで働いてるんだもんね」

「はい」

蒼は笑いながら言った。

「明日、職場の人に『昨日、婚姻届出しました』って言うの、なんか照れます」

「言わなくてもいいんじゃない?」

「でも、たぶんバレますよ」

「どうして?」

「顔に出てるから」

「確かに」

夕凪は笑った。

「今日ずっと満面の笑みだもんね」

「だって嬉しいですから」

蒼は夕凪の手を握った。

「自分の職場に、夕凪さんと一緒に婚姻届を出しに行けるなんて」

「……うん」

夕凪も握り返す。

二人は市役所へ向かって歩いていく。

蒼にとっては、毎日通っている場所。

でも今日だけは、いつもとは違う場所に見えた。

仕事をする場所ではなく。

大切な人と一緒に、人生の届けを出しに行く場所。

「夕凪さん」

「なに?」

「行きましょう」

「うん」

二人は並んで、市役所へ入っていった。

バッグの中には、一枚の婚姻届。

そこには、二人の名前が並んでいる。

雨の日に出会った二人が。

今日、晴れた日の夕方。

蒼の職場である津久見市役所へ、家族になるための一枚を届けに来た。