四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

土曜日の朝。

「あまなぎ」の奥にある家には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。

夕凪は朝ご飯の準備を終えると、テーブルの上に一枚の書類を置いた。

婚姻届。

夕凪は昨夜、蒼が眠ったあとに一人で書いた。

自分の名前。

住所。

必要なところを、ゆっくり確認しながら。

そして、蒼が書くところだけを残して、テーブルの上に置いていた。

その隣には、朝ご飯。

焼き鮭。

白いご飯。

明太子。

そして、温かいお味噌汁。

「蒼くん、ご飯できたよ」

「はい」

蒼が寝室から出てくる。

まだ少し眠そうな顔をしながら、テーブルへ向かった。

そして。

「……え?」

蒼の足が止まった。

テーブルの上にある婚姻届に気づいたのだ。

「夕凪さん……これ」

「うん」

夕凪は何でもないように答えた。

「婚姻届」

「……」

蒼はしばらく、書類を見つめていた。

そして。

「……本当に?」

「うん」

「これ、僕たちの?」

「そうだよ」

蒼の顔が一気に明るくなった。

「嬉しい……!」

「もう、朝ご飯食べて」

「だって……!」

「いいから」

夕凪は椅子を引いた。

「座って」

蒼は婚姻届からなかなか目を離せない。

「夕凪さん、書いてくれたんですか?」

「うん」

「本当に……?」

「何回聞くの」

夕凪は少し笑った。

「ほら。冷めちゃうよ」

蒼はようやく椅子に座った。

「いただきます」

焼き鮭を一口。

「……美味しい」

「よかった」

「白ご飯も美味しい」

「鮭と一緒に食べて」

「はい」

蒼はご飯を頬張りながら、明太子にも手を伸ばす。

「明太子ある」

「好きでしょ?」

「大好きです」

「知ってる」

蒼は嬉しそうに朝ご飯を食べる。

けれど、何度も婚姻届のほうを見る。

「……夕凪さん」

「なに?」

「今から書いていい?」

「え?」

「婚姻届」

「今?」

「うん」

蒼は立ち上がろうとする。

夕凪は呆れた顔をした。

「ちょっと待って。蒼くん、今日仕事でしょ?」

「うん」

「もう時間ないんじゃない?」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないよ」

時計を見る。

「早く出ないと間に合わないでしょ。遅刻するよ?」

蒼はにこっと笑った。

「もう連絡しました」

「……は?」

「遅刻するって」

「え?」

「婚姻届を書いてから出勤しますって連絡しました」

夕凪は固まった。

「……蒼くん」

「はい」

「なんで?」

「だって、婚姻届ですよ?」

蒼は当然のように言う。

「こんなの見つけたら、仕事どころじゃないです」

「いやいやいや」

夕凪は頭を抱えた。

「仕事は仕事でしょ」

「分かってます」

「分かってないじゃん」

「でも、今日は大事な日なので」

蒼は婚姻届を手に取った。

「これ、書いて出しててください」

「え?」

「僕も書くから」

「だから仕事に行きなさいって」

「書いてから行きます」

「遅刻するよ」

「もう遅刻するって連絡しました」

「……」

夕凪は蒼を見る。

蒼は本当に嬉しそうだった。

まるで、ずっと待っていたものが目の前に現れたみたいに。

「……もう」

夕凪は小さくため息をついた。

「呆れた」

「すみません」

「いいよ。もう」

夕凪は婚姻届とペンを蒼の前に置いた。

「分かったから」

「はい!」

蒼は嬉しそうに椅子に座る。

そして、真剣な顔で自分の名前を書き始めた。

夕凪はその姿を見ながら、思わず笑った。

「そんなに嬉しいの?」

「嬉しいです」

「そっか」

「ものすごく嬉しいです」

蒼は顔を上げた。

「夕凪さんと家族になれるんですよね」

夕凪は少し照れながら頷いた。

「……うん」

蒼はまた書類に目を戻す。

ペンを握る手が、少しだけ震えていた。

それでも。

一文字ずつ、丁寧に書いていく。

焼き鮭の匂いが残る朝のテーブル。

そのすぐ隣には、二人の名前が並んでいく婚姻届。

「……書けました」

蒼が顔を上げる。

夕凪は書類を確認した。

「うん。大丈夫」

「本当に?」

「うん」

蒼は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、行ってきます」

「うん」

玄関へ向かう蒼。

けれど、途中で振り返った。

「夕凪さん」

「なに?」

「今日、帰ってきたら……一緒に出しに行きません?」

夕凪は笑った。

「うん。一緒に行こう」

「約束ですよ」

「約束」

蒼は嬉しそうに玄関を出ていった。

夕凪は閉まった扉を見つめながら、呟いた。

「……本当に、嬉しいんだね」

テーブルの上には。

二人が書いた婚姻届。

そして、少し冷めかけた焼き鮭と白ご飯。

新しい家族になる朝は。

なんだか、いつもの朝より少しだけ騒がしかった。