四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

土曜日。

久しぶりに、空がきれいに晴れていた。

雨の日だけ開く「あまなぎ」は、今日はお休み。

夕凪と蒼は、店の奥にある家でゆっくり過ごしていた。

朝。

夕凪は出かける準備をしながら、ソファでくつろいでいる蒼に声をかけた。

「蒼くん」

「ん?」

「今日は、ゆっくり休んでてね」

「夕凪さんは?」

「ちょっとね」

夕凪は笑った。

「お昼ご飯、作って冷蔵庫に入れてるから」

「何?」

「チキン南蛮」

「チキン南蛮!」

蒼の顔がぱっと明るくなる。

「あとね」

夕凪は冷蔵庫を指差した。

「チーズケーキもあるから、食べていいよ」

「いいんですか?」

「うん。ゆっくり食べて」

蒼は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます」

「じゃあ、行ってくるね」

「どこ行くの?」

「……ちょっとね」

「ちょっと?」

「うん」

夕凪はそれだけ言うと、家を出ていった。

蒼は不思議そうに玄関を見つめる。

「何だろう……」

でも、夕凪が「ゆっくり休んでて」と言ったので、蒼はそのままソファで過ごすことにした。

しばらくして。

蒼は冷蔵庫を開けた。

そこには、夕凪が作ってくれたチキン南蛮が入っていた。

タルタルソースも別の容器に入っている。

そして、その隣にはチーズケーキ。

「……夕凪さん、優しいな」

蒼は小さく笑った。

昼になっても、夕凪はまだ帰ってこない。

蒼はテレビを見ながら待っていた。

そして午後。

玄関の扉が開く。

「ただいま」

「おかえりなさい」

蒼が出迎える。

夕凪は少しだけ疲れたような顔をしていたけれど、どこか嬉しそうだった。

「蒼くん、お昼食べた?」

「食べてないよ」

「えっ、まだ食べてないの?」

「夕凪さんが帰ってくるの待ってた」

「もう……」

夕凪は少し困ったように笑った。

「じゃあ、今から作ろう」

「でも、チキン南蛮あるよ」

「うん」

夕凪は冷蔵庫を開けた。

「じゃあ、唐揚げ作ろうかな」

「唐揚げ?」

「うん。唐揚げ作ったら、チキン南蛮と一緒に食べよ!」

「最高ですね」

蒼が笑う。

夕凪は厨房に立ち、鶏肉を切り始めた。

油の音。

衣をつけた鶏肉を揚げる音。

家の中に、香ばしい匂いが広がっていく。

「いい匂い……」

「もうちょっと待ってね」

「はい」

しばらくして。

テーブルの上には、チキン南蛮と揚げたての唐揚げが並んだ。

「いただきます」

「いただきます」

二人で食べ始める。

「おいしい」

「ほんと?」

「うん」

蒼は唐揚げを一つ食べて、嬉しそうに笑った。

「やっぱり夕凪さんのご飯好きです」

「ありがとう」

夕凪も笑った。

食事が落ち着いた頃。

夕凪は、自分のバッグを開けた。

そして。

小さな箱を取り出した。

「蒼くん」

「ん?」

「これ、プレゼント」

「え?」

蒼が驚く。

夕凪は箱を蒼の前に置いた。

「開けてみて」

「……はい」

蒼が箱を開ける。

中には、新しい財布が入っていた。

「財布……?」

「うん」

蒼は自分の今使っている財布を見る。

大学に入った頃から使っていた財布。

角は擦れていて、表面もかなり傷んでいる。

「もう、ぼろぼろだったから」

夕凪が笑う。

「大学からずっと使ってたでしょ?」

「……よく見てましたね」

「毎日一緒にいるんだもん」

蒼は新しい財布を手に取った。

何度も眺める。

「……嬉しい」

「使ってくれる?」

「もちろん」

蒼は財布を大事そうに抱えた。

「ありがとうございます、夕凪さん」

「どういたしまして」

「大切にします」

「うん」

蒼はしばらく財布を見つめていた。

そして、ふっと笑った。

「僕、大学のときから使ってた財布が、今日で終わるんですね」

「そうだね」

「なんか……ちょっと寂しいけど」

「新しい生活には、新しい財布もいいんじゃない?」

その言葉に、蒼は顔を上げた。

「新しい生活……」

「うん」

夕凪は少し照れながら言った。

「これから、一緒に暮らすんだから」

蒼の顔が嬉しそうに変わる。

「……はい」

「まだ、これからだけどね」

「分かってます」

蒼は新しい財布を見つめた。

大学時代から使ってきた財布。

そこには、学生だった頃の思い出がたくさん詰まっている。

そして今日。

夕凪からもらった新しい財布を手にした。

それはまるで。

学生だった自分から、大人になった自分へ。

そして。

夕凪と一緒に歩いていく未来へ。

小さな区切りをつけるような贈り物だった。

「夕凪さん」

「ん?」

「これからも、よろしくお願いします」

夕凪は微笑んだ。

「こちらこそ」

晴れた土曜日。

雨の日だけ開く喫茶店は静かに眠っている。

けれど、その奥の家には。

揚げたての唐揚げの香りと、二人の笑い声が広がっていた。