ある雨の日。
「あまなぎ」は、いつものように静かに営業していた。
蒼は数日前、お母さんに夕凪とのことを話した。
一緒に暮らしたいこと。
そして、これから先も夕凪と一緒にいたいこと。
最初は驚いていたお母さんも、蒼の話をゆっくり聞いてくれた。
その後、両家の顔合わせも無事に終わった。
まだ籍を入れたわけではない。
けれど、二人の未来は少しずつ現実になっていた。
そんな日の「あまなぎ」。
夕凪がカウンターを拭いていると、女性が一人、ゆっくりと店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「……あの」
女性は店内を見回した。
どこか迷っているような表情だった。
「どうぞ。好きな席へ」
女性は窓際の席に座った。
「チキン南蛮定食と、お水でお願いします」
「はい」
夕凪は厨房へ向かった。
しばらくすると、チキン南蛮定食が出来上がる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女性は静かに食事を始めた。
けれど、箸を持つ手はどこか重かった。
夕凪は無理に話しかけなかった。
「あまなぎ」では、話したくなった人が、自分から話せるまで待つ。
それも、夕凪が大切にしていることだった。
しばらくして。
女性がバッグの中から小さな薬の袋を取り出した。
その瞬間。
夕凪の目に、その薬が入った。
見覚えがある。
自分も、今飲んでいる薬だった。
――双極性障害の薬。
夕凪は一瞬だけ息を止めた。
そして、すぐにいつもの表情に戻る。
「……」
自分も、まだ薬を飲んでいる。
このことを。
蒼には、まだちゃんと話していない。
もうすぐ一緒に暮らすことを考えている。
だからこそ。
早く言わなきゃ。
そう思っていた。
でも。
怖かった。
言ったら、蒼はどう思うだろう。
今までのように接してくれるだろうか。
そんな不安が、胸の奥に広がった。
そのとき。
「……すみません」
女性の声がした。
夕凪は顔を上げた。
「はい」
「少し……話してもいいですか?」
「もちろんです」
女性は少しずつ、自分の悩みを話し始めた。
仕事のこと。
人間関係のこと。
気分が大きく変わること。
調子がいいときは何でもできそうな気がするのに、落ち込むと何もできなくなること。
「自分でも、自分が嫌になるんです」
女性は俯いた。
夕凪は静かに聞いていた。
そして、少しだけ間を置いてから言った。
「自分を嫌いになる必要はないと思いますよ」
「……でも」
「病気があることと、その人自身の価値は別です」
女性は黙って夕凪を見る。
「薬を飲むことも、休むことも、誰かに助けてもらうことも……負けじゃないですよ」
「……」
「今できないことがあるなら、今はできないだけです」
夕凪は優しく続けた。
「無理に元気になろうとしなくていいと思います」
女性の目に、少し涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
「いえ」
夕凪は微笑んだ。
「これは、あくまでも私からの助言ですけどね」
女性も、ほんの少し笑った。
食事を終えると、女性は会計を済ませた。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
「……今度は、もう少し美味しく食べられる気がします」
「それならよかったです」
女性は頭を下げて、雨の中へ出ていった。
夕凪はその背中を見送った。
扉が閉まる。
店内が静かになる。
夕凪は自分の指に目を落とした。
そこには、蒼からもらった指輪が光っている。
「……私も、ちゃんと話さなきゃ」
小さく呟いた。
その日の営業が終わる頃。
「あまなぎ」の扉が開いた。
「ただいま」
「おかえり、蒼くん」
蒼が帰ってきた。
両家の顔合わせも終わり、最近の蒼は以前よりも自然に「ただいま」と言うようになった。
夕凪も「おかえり」と返す。
それが少しずつ、二人の日常になっていた。
「今日、どうだった?」
「普通に仕事でした」
蒼は笑う。
「夕凪さんは?」
「うん……」
夕凪は少し黙った。
「蒼くん」
「はい?」
「話したいことがあるの」
蒼の表情が少し真剣になる。
「どうしたんですか?」
夕凪は自分の指輪を見た。
そして、ゆっくり息を吸った。
「私ね……双極性障害があるの」
蒼は黙って夕凪を見る。
夕凪は続けた。
「今も薬を飲んでる」
「……そうなんですか?」
「うん」
「……」
夕凪は怖かった。
何を言われるのか。
これまでと同じ目で見てもらえるのか。
「ごめんね。もっと早く言わなきゃいけなかったのに」
「夕凪さん」
「一緒に住むことも考えてるのに、ちゃんと話しておきたくて」
蒼はしばらく何も言わなかった。
夕凪は俯いた。
すると。
蒼がゆっくり近づいてきた。
「そうなんですか」
「……うん」
「それでもいいです」
夕凪が顔を上げる。
「え?」
蒼は優しく笑った。
「それでも、僕は夕凪さんが好きです」
「……」
「病気があるからって、夕凪さんが夕凪さんじゃなくなるわけじゃないですよね」
夕凪の目に涙が浮かぶ。
「……うん」
「僕、病気のことを全部理解できてるわけじゃないです」
「うん」
「だから、これから一緒に知っていきたい」
蒼は夕凪の手をそっと握った。
「調子が悪いときは、ちゃんと休んでください」
「……」
「無理して笑わなくてもいいです」
夕凪の涙が、一粒落ちた。
「僕は、夕凪さんと一緒にいたい」
そして。
「病気があってもなくても、夕凪さんは夕凪さんです」
夕凪は泣きながら笑った。
「……ありがとう」
蒼は握った手を離さなかった。
雨音だけが、静かな店内に響いている。
今日、夕凪は初めて。
自分の大切なことを、蒼に話すことができた。
そして蒼は、その話を聞いたうえで。
変わらず、夕凪の隣にいた。
窓の外には、雨に濡れた四浦の海。
二人の未来は、きっと完璧ではない。
それでも。
一緒に知って。
一緒に考えて。
一緒に支えていく。
それが、二人の「家族」になっていくということなのかもしれなかった。
「あまなぎ」は、いつものように静かに営業していた。
蒼は数日前、お母さんに夕凪とのことを話した。
一緒に暮らしたいこと。
そして、これから先も夕凪と一緒にいたいこと。
最初は驚いていたお母さんも、蒼の話をゆっくり聞いてくれた。
その後、両家の顔合わせも無事に終わった。
まだ籍を入れたわけではない。
けれど、二人の未来は少しずつ現実になっていた。
そんな日の「あまなぎ」。
夕凪がカウンターを拭いていると、女性が一人、ゆっくりと店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「……あの」
女性は店内を見回した。
どこか迷っているような表情だった。
「どうぞ。好きな席へ」
女性は窓際の席に座った。
「チキン南蛮定食と、お水でお願いします」
「はい」
夕凪は厨房へ向かった。
しばらくすると、チキン南蛮定食が出来上がる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女性は静かに食事を始めた。
けれど、箸を持つ手はどこか重かった。
夕凪は無理に話しかけなかった。
「あまなぎ」では、話したくなった人が、自分から話せるまで待つ。
それも、夕凪が大切にしていることだった。
しばらくして。
女性がバッグの中から小さな薬の袋を取り出した。
その瞬間。
夕凪の目に、その薬が入った。
見覚えがある。
自分も、今飲んでいる薬だった。
――双極性障害の薬。
夕凪は一瞬だけ息を止めた。
そして、すぐにいつもの表情に戻る。
「……」
自分も、まだ薬を飲んでいる。
このことを。
蒼には、まだちゃんと話していない。
もうすぐ一緒に暮らすことを考えている。
だからこそ。
早く言わなきゃ。
そう思っていた。
でも。
怖かった。
言ったら、蒼はどう思うだろう。
今までのように接してくれるだろうか。
そんな不安が、胸の奥に広がった。
そのとき。
「……すみません」
女性の声がした。
夕凪は顔を上げた。
「はい」
「少し……話してもいいですか?」
「もちろんです」
女性は少しずつ、自分の悩みを話し始めた。
仕事のこと。
人間関係のこと。
気分が大きく変わること。
調子がいいときは何でもできそうな気がするのに、落ち込むと何もできなくなること。
「自分でも、自分が嫌になるんです」
女性は俯いた。
夕凪は静かに聞いていた。
そして、少しだけ間を置いてから言った。
「自分を嫌いになる必要はないと思いますよ」
「……でも」
「病気があることと、その人自身の価値は別です」
女性は黙って夕凪を見る。
「薬を飲むことも、休むことも、誰かに助けてもらうことも……負けじゃないですよ」
「……」
「今できないことがあるなら、今はできないだけです」
夕凪は優しく続けた。
「無理に元気になろうとしなくていいと思います」
女性の目に、少し涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
「いえ」
夕凪は微笑んだ。
「これは、あくまでも私からの助言ですけどね」
女性も、ほんの少し笑った。
食事を終えると、女性は会計を済ませた。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
「……今度は、もう少し美味しく食べられる気がします」
「それならよかったです」
女性は頭を下げて、雨の中へ出ていった。
夕凪はその背中を見送った。
扉が閉まる。
店内が静かになる。
夕凪は自分の指に目を落とした。
そこには、蒼からもらった指輪が光っている。
「……私も、ちゃんと話さなきゃ」
小さく呟いた。
その日の営業が終わる頃。
「あまなぎ」の扉が開いた。
「ただいま」
「おかえり、蒼くん」
蒼が帰ってきた。
両家の顔合わせも終わり、最近の蒼は以前よりも自然に「ただいま」と言うようになった。
夕凪も「おかえり」と返す。
それが少しずつ、二人の日常になっていた。
「今日、どうだった?」
「普通に仕事でした」
蒼は笑う。
「夕凪さんは?」
「うん……」
夕凪は少し黙った。
「蒼くん」
「はい?」
「話したいことがあるの」
蒼の表情が少し真剣になる。
「どうしたんですか?」
夕凪は自分の指輪を見た。
そして、ゆっくり息を吸った。
「私ね……双極性障害があるの」
蒼は黙って夕凪を見る。
夕凪は続けた。
「今も薬を飲んでる」
「……そうなんですか?」
「うん」
「……」
夕凪は怖かった。
何を言われるのか。
これまでと同じ目で見てもらえるのか。
「ごめんね。もっと早く言わなきゃいけなかったのに」
「夕凪さん」
「一緒に住むことも考えてるのに、ちゃんと話しておきたくて」
蒼はしばらく何も言わなかった。
夕凪は俯いた。
すると。
蒼がゆっくり近づいてきた。
「そうなんですか」
「……うん」
「それでもいいです」
夕凪が顔を上げる。
「え?」
蒼は優しく笑った。
「それでも、僕は夕凪さんが好きです」
「……」
「病気があるからって、夕凪さんが夕凪さんじゃなくなるわけじゃないですよね」
夕凪の目に涙が浮かぶ。
「……うん」
「僕、病気のことを全部理解できてるわけじゃないです」
「うん」
「だから、これから一緒に知っていきたい」
蒼は夕凪の手をそっと握った。
「調子が悪いときは、ちゃんと休んでください」
「……」
「無理して笑わなくてもいいです」
夕凪の涙が、一粒落ちた。
「僕は、夕凪さんと一緒にいたい」
そして。
「病気があってもなくても、夕凪さんは夕凪さんです」
夕凪は泣きながら笑った。
「……ありがとう」
蒼は握った手を離さなかった。
雨音だけが、静かな店内に響いている。
今日、夕凪は初めて。
自分の大切なことを、蒼に話すことができた。
そして蒼は、その話を聞いたうえで。
変わらず、夕凪の隣にいた。
窓の外には、雨に濡れた四浦の海。
二人の未来は、きっと完璧ではない。
それでも。
一緒に知って。
一緒に考えて。
一緒に支えていく。
それが、二人の「家族」になっていくということなのかもしれなかった。

