四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

雨が上がった夕方。

「あまなぎ」の店内には、雨上がりの四浦の海から差し込む柔らかな光が入っていた。

蒼はいつもの席に座っていた。

夕凪は厨房で片付けをしながら、時々蒼のほうを見て笑っている。

「蒼くん、今日はコーヒー?」

「うん。あと、チーズケーキも」

「ふふ。最近そればっかりだね」

「好きだから」

「チーズケーキが?」

「もちろん」

蒼は少し笑ってから、夕凪を見た。

「……夕凪さんも」

夕凪は一瞬だけ手を止めた。

「私も?」

「好きです」

「もう……」

夕凪は照れたように笑った。

二人の間には、少しずつ変わってきたものがあった。

以前は、蒼が夕凪を好きだと伝えても、夕凪は未来を約束することができなかった。

でも今は違う。

蒼は大学を卒業し、仕事を始めた。

夕凪も、蒼を一人の大人として見られるようになってきていた。

まだ結婚すると決めたわけではない。

けれど。

指には、蒼からもらった指輪がある。

そして二人は、これからのことを少しずつ話すようになっていた。

「そういえば……」

蒼が店内を見回す。

「昨日見せてもらった家、本当に広かったですよね」

「そう?」

「うん。三人くらいなら住めるって言ってた」

「うん」

夕凪は笑う。

「三人なら、ちょうどいいかなって」

蒼は少し考えるように黙った。

それから、ぽつりと言った。

「……赤ちゃんとか?」

夕凪の手が止まる。

「赤ちゃん?」

「うん」

蒼は少し恥ずかしそうに笑った。

「もし、僕たちが家族になったら……」

夕凪は蒼の顔を見る。

「赤ちゃん、欲しいね」

その言葉は、とても自然だった。

夕凪は少し驚いたあと、柔らかく笑った。

「……うん」

「夕凪さんも?」

「うん。いつかね」

「いつか?」

「いつか」

夕凪は椅子に座り、蒼の向かいに座った。

「私ね、小さい子が好きなんだ」

「知ってます」

「しずくちゃんが来ると、つい構いたくなっちゃうし」

「この前もフライドポテト、サービスしてましたよね」

「だって、しずくちゃん、ちょっと寂しそうだったから」

蒼はそのときのことを思い出す。

夕凪が、しずくに小さなお皿いっぱいのフライドポテトを出していたこと。

「たまに食べたくならない?」

そう言って、笑わせていたこと。

あの姿を見たとき。

蒼は思った。

――この人となら、子どもができても大丈夫だろうな。

「僕も、欲しいです」

「赤ちゃん?」

「うん」

蒼は頷いた。

「夕凪さんとの子ども」

夕凪は少し頬を赤くした。

「……まだ、気が早いよ」

「分かってます」

「まずは一緒に暮らすこととか、結婚することとか、ちゃんと考えないとね」

「うん」

蒼は笑った。

「でも、話すくらいならいいですよね?」

「もちろん」

夕凪も笑った。

「じゃあ……男の子と女の子、どっちがいい?」

「うーん……」

蒼は真剣に考える。

「どっちでもいいかな」

「どっちでも?」

「うん。元気に生まれてきてくれたら、それだけで嬉しい」

夕凪はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

「私も」

二人は顔を見合わせる。

「でも……」

夕凪が少し笑う。

「女の子だったら、一緒にお菓子作りしたいかも」

「じゃあ男の子だったら、僕が一緒に遊びます」

「ふふ」

「海にも連れていきたい」

「いいね」

「四浦の海を見せてあげたい」

「うん」

夕凪は窓の外を見る。

雨上がりの海は、いつもより鮮やかだった。

「この町で育つんだね」

「うん」

「お店にも来るかな」

「来ると思います」

「厨房に入ってきて、『お腹すいたー』って言うかも」

「それなら、僕が連れてきます」

二人で笑った。

まだ存在しない、小さな家族の話。

それなのに。

二人の中では、まるで本当にそこにいるかのように、少しずつ姿が浮かんできた。

リビングに、小さなおもちゃが置かれて。

二階には、小さなベッドがあって。

朝になったら、泣き声が聞こえて。

夕凪が抱き上げて。

蒼が隣で笑っている。

そんな未来。

夕凪は自分の指に光る指輪を見た。

「……蒼くん」

「ん?」

「私ね」

「うん」

「いつか、本当に三人で暮らせたらいいな」

蒼は、嬉しそうに笑った。

「僕もです」

「でも、焦らないでね」

「分かってます」

「一つずつね」

「はい」

蒼は頷いた。

結婚。

一緒に暮らすこと。

そして、いつか赤ちゃん。

まだ何一つ決まってはいない。

それでも二人は、初めて同じ未来を見ながら話していた。

「あまなぎ」の外では、雨上がりの海がきらきらと輝いていた。

二人が想像した未来は、まだ遠い。

だけど。

その未来には確かに――

三人分の笑い声があった。