四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

 その日は、朝から細かな雨が降っていた。

 四浦の海は白い霧に包まれ、窓ガラスには雨粒が静かに流れている。

 夕凪は厨房に立ち、パンを焼いていた。

 焼きたてのパンから、香ばしい匂いが店内いっぱいに広がっていく。

 今日はサンドイッチにしよう。

 そう思いながらパンを切っていると――。

 カラン、カラン。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは、二十代くらいの女性だった。

 雨に濡れた傘をたたみ、少し疲れた顔で店内を見回している。

「……ここ、入っても大丈夫ですか?」

「もちろんです。雨宿りしていってください」

 夕凪が笑うと、女性も小さく笑った。

「ありがとうございます」

 女性は窓際の席に座った。

「メニュー、どうぞ」

「はい」

 しばらくメニューを眺めてから、

「サンドイッチと、ホットココアをお願いします」

「かしこまりました」

 夕凪は焼きたてのパンを使ってサンドイッチを作り始めた。

 ふんわり焼き上がったパンに、レタス、卵、ハムを挟む。

 最後に綺麗に切り分け、ココアと一緒にテーブルへ運んだ。

「お待たせしました」

「わぁ……美味しそう」

「焼きたてのパンを使っています」

「いただきます」

 女性は一口食べた。

「……美味しい」

「よかったです」

 ココアを一口飲むと、女性はほっと息を吐いた。

 しばらくは何も話さず、ゆっくり食事をしていた。

 けれど――。

「……あの」

「はい」

「少し、話を聞いてもらってもいいですか?」

「もちろんです」

 夕凪は、女性の向かいに座った。

「私、結婚していて……」

「うん」

「お義母さんがいるんです」

 女性はカップを両手で包んだ。

「すごくよくしてくれる人なんです。結婚してからも、いろいろ気にかけてくれて」

「素敵なお義母さんですね」

「はい。だから私も、お義母さんに喜んでもらいたくて」

 女性は少し寂しそうに笑った。

「でも……何をプレゼントしても、あまり喜んでくれないんです」

「そうなんですね」

「母の日も、何か贈りたいんです。日頃の感謝を伝えたいから」

 女性は少し考えながら話した。

「でも、お義母さんは物をあまり欲しがらないんです。消費するものとか、好きなものを聞いても『何もいらない』って」

「お義母さんは、何がお好きなんですか?」

「旅行です」

 その言葉を言ったとき、女性の顔が少し明るくなった。

「旅行が大好きなんです」

「じゃあ……」

「私、旅行をプレゼントしたら喜んでくれるんじゃないかなって思って」

「いいですね」

「でも、その話を夫にしたら……」

 女性の表情が曇った。

「『母の日に旅行なんて大げさじゃない?』って言われたんです」

「……」

「私は、お義母さんに喜んでもらいたいだけなのに」

 女性は俯いた。

「『そんなにしなくてもいいだろ』って言われて……」

 少し間があった。

「喧嘩になりました」

 夕凪は、急いで答えなかった。

「お義母さんが私にしてくれたことに、ちゃんとありがとうって伝えたいんです」

「うん」

「でも、夫にはその気持ちを分かってもらえなくて……」

「それは、悲しかったですね」

 女性は小さく頷いた。

 夕凪は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「もしかすると、ご主人は『何をプレゼントするか』の話として受け取っているのかもしれません」

「……」

「でも、あなたが本当に伝えたいのは、プレゼントそのものじゃないんですよね」

 女性は顔を上げた。

「『いつもありがとうございます』って伝えたいんです」

「……はい」

「だったら、ご主人に旅行のことを納得してもらう前に、その気持ちを話してみるのはどうでしょう?」

「気持ちを……」

「『お義母さんが好きだから、喜んでもらえることをしたい』って」

 女性は黙って聞いている。

「旅行じゃなくてもいいんです。ご主人と一緒に、お義母さんが本当に喜ぶことを探してみてもいい」

「……そうですよね」

「例えば、一緒に旅行へ行くのもいいかもしれません」

「私たち夫婦と、お義母さんで?」

「はい。プレゼントという形じゃなくても、思い出を一緒に作ることはできますから」

 女性の顔が、少し明るくなった。

「それなら……夫も考えてくれるかもしれません」

「もちろん、これはあくまでも私からの助言です」

 夕凪は微笑んだ。

「どうするかは、ご夫婦で決めてくださいね」

「はい」

 女性はサンドイッチをもう一口食べた。

「……美味しい」

「ふふ。よかった」

「さっきまで、夫と喧嘩したことばかり考えていたんです」

 女性はココアを見つめた。

「でも、私が本当にしたかったのは、喧嘩することじゃなくて……『ありがとう』って伝えることだったんですね」

「そうかもしれませんね」

 女性は、少し照れたように笑った。

「帰ったら、もう一回ちゃんと話してみます」

「うん」

「今度は喧嘩しないように」

「ゆっくり話せば、きっと大丈夫ですよ」

 女性は会計を済ませた。

 そして、店の入り口で振り返る。

「ありがとうございました」

「こちらこそ、来てくれてありがとう」

「また来てもいいですか?」

「もちろん」

 女性は笑って、雨の中へ出ていった。

 夕凪は、窓からその背中を見送った。

 大切な人に、ありがとうを伝えたい。

 その気持ちは、とても優しいものなのに。

 伝え方が違えば、時にはすれ違ってしまう。

 だからこそ――。

 一度立ち止まって、相手の気持ちを聞いてみる。

 そして、自分の気持ちも伝えてみる。

 雨の日の「あまなぎ」は、そんな小さなきっかけを作る場所だった。

 窓の外では、まだ雨が降っている。

 でも、遠くの雲の向こうには、少しだけ明るい空が見えていた。