四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

三月の雨が、あまなぎの窓を静かに叩いていた。

蒼が夕凪の前に小さな指輪の箱を置いた。

「僕と、家族になってください」

夕凪は、すぐには答えられなかった。

嬉しい。

その気持ちは、確かにあった。

四年前、高校三年生だった蒼。

あの頃の蒼が大学を卒業して、仕事を決めて、自分で働いて得たお金で指輪を買ってきた。

そして四年間、それぞれの人生を歩いてきた。

それでも、蒼は今も夕凪を好きだと言っている。

けれど、夕凪はまだ自分の気持ちを整理しきれていなかった。

その時。

「ゆうちゃん……」

しずくの声が聞こえた。

夕凪が振り向く。

しずくは、少しだけ寂しそうな顔をしていた。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

夕凪は、その顔を見て微笑んだ。

「しずくちゃん、ちょっと待っててね」

夕凪は厨房へ向かった。

そしてしばらくして、小さなお皿を持って戻ってくる。

「はい。サービス」

そこには、揚げたてのポテトが乗っていた。

「わあ!」

しずくの顔がぱっと明るくなる。

「ポテト!」

「たまに食べたくならない?」

「なる!」

しずくは嬉しそうに笑った。

「ありがとう、ゆうちゃん!」

「どういたしまして」

しずくは一本つまんで口に入れる。

「おいしい!」

「よかった」

さっきまで少し膨らんでいた頬が、すっかり元に戻っていた。

「ゆうちゃん、大好き!」

「私もしずくちゃん大好き」

その姿を、蒼は静かに見ていた。

夕凪は、子どもの気持ちをちゃんと見ている。

何も聞かず。

無理に励ますこともしない。

ただ、その子が笑顔になれるものを見つけてあげる。

蒼の胸の中に、また未来が浮かんだ。

――夕凪さんとなら。

子どもができても、一緒にやっていける。

泣いたり、笑ったり。

大変なことがあっても、二人で考えて。

今日みたいに、一緒に笑える。

そんな家族になれる気がした。

蒼は、もう一度、テーブルの上の指輪を見る。

そして夕凪に向き直った。

「夕凪さん」

「うん?」

「……指輪」

蒼が小さな箱を差し出す。

「はい」

夕凪は箱を見つめた。

しばらく黙っていた。

そして、ゆっくり右手を差し出した。

「……蒼」

「はい」

「指輪……」

夕凪は少しだけ照れながら言った。

「私の指に、はめてくれる?」

蒼の目が大きくなる。

「……いいんですか?」

夕凪は小さく頷いた。

「うん」

蒼は震えそうになる手で、箱から指輪を取り出した。

夕凪の指先に、そっと触れる。

そして――。

ゆっくりと指輪をはめた。

小さな指輪が、夕凪の指に収まる。

蒼は、その手を見つめた。

「……似合ってます」

夕凪は指輪を見ながら、少しだけ笑った。

「ありがとう」

「夕凪さん……」

「まだ、全部決めたわけじゃないよ」

「はい」

「でも……」

夕凪は指輪を見つめる。

「これからのこと、ちゃんと考えてみたい」

蒼は嬉しそうに頷いた。

「はい」

その二人を見ていたしずくが、また声を上げる。

「ゆうちゃん!」

「ん?」

「お姫様になったの?」

夕凪は笑った。

「どうかな?」

「絶対お姫様!」

しずくは楽しそうに笑う。

その笑顔を見て、蒼も笑った。

雨の日のあまなぎ。

チーズケーキとコーヒー。

揚げたてのポテト。

そして、夕凪の指に光る小さな指輪。

四年前には想像もできなかった景色だった。

蒼は思う。

いつか。

この場所に、自分たちの家族が増える日が来るのだろうか。

まだ分からない。

けれど――。

今日、夕凪が自分の指に指輪をはめることを許してくれた。

それだけで、蒼には十分だった。

窓の外では、三月の雨が静かに降っている。

雨は、まだ止まない。

けれど。

その雨の向こうに。

二人のこれからが、ほんの少しだけ見えた。

それは――。

雨の日に見えた未来。