四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

蒼は、それからまた「あまなぎ」に通うようになった。

毎日。

仕事が終わってから来る日もあった。

休みの日には、昼間からやって来ることもあった。

「いらっしゃい、蒼」

「こんにちは、夕凪さん」

仕事帰りのスーツ姿。

休日の少しラフな服装。

姿は日によって違っても、変わらないものがひとつあった。

蒼は、夕凪に会いに来ていた。

チーズケーキを食べたり。

コーヒーを飲んだり。

夕凪と他愛のない話をしたり。

忙しい日は、ほんの少し顔を見せるだけの日もあった。

それでも必ず、

「また来ます」

と言って帰っていった。

そんなある雨の日。

カラン、と扉のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

夕凪が顔を上げる。

そこにいたのは、しずくだった。

「ゆうちゃーん!」

以前は「夕凪さん」と呼んでいたしずく。

いつの間にか、「ゆうちゃん」と呼ぶようになっていた。

「しずくちゃん!」

夕凪は嬉しそうに笑った。

「こんにちは!」

「こんにちは。今日はどうしたの?」

「遊びに来たの!」

しずくはランドセルを背負ったまま、いつもの席へ向かう。

夕凪も笑いながらメニューを持っていく。

「今日はオレンジジュース? リンゴジュース? どっちがいい?」

しずくは少し考えてから、

「今日は、オレンジジュースがいい!」

「はい、オレンジジュースね」

夕凪が厨房へ向かおうとすると、しずくが続けた。

「それとね!」

「うん?」

「ゆうちゃんのプリン好きー!」

夕凪は思わず笑った。

「ふふ。じゃあ、プリンも?」

「プリンがいい!」

「はいはい。じゃあ、プリンもね」

「やったー!」

しずくは嬉しそうに笑う。

その様子を、少し離れた席から蒼が見ていた。

今日は蒼も来ていた。

仕事が休みだったので、昼過ぎからあまなぎに来ていたのだ。

夕凪がしずくのオレンジジュースを用意している。

プリンをお皿に乗せている。

「熱くないから、ゆっくり食べてね」

「いただきます!」

しずくは嬉しそうにプリンを食べ始める。

その姿を見ながら、蒼はふと思った。

夕凪は、本当に子どもが好きなんだ。

しずくに向ける笑顔。

声の柔らかさ。

プリンを食べる姿を嬉しそうに眺める表情。

四年前から変わらない。

いや。

四年間を見てきたからこそ、蒼にはよく分かった。

夕凪は、子どもが好きだ。

そして。

もうすぐ三十歳になる。

結婚や家族のことを考えるのも、自然なことなのだと思った。

蒼は、しばらく何も言わなかった。

けれど。

胸の中では、ずっと考えていたことがあった。



しずくがプリンを食べている間。

蒼は夕凪を呼んだ。

「夕凪さん」

「ん?」

「チーズケーキと、コーヒーください」

「いつものだね」

「はい」

夕凪が笑う。

蒼は、その笑顔を見ながら思った。

今日、言おう。

四年前からずっと胸の中にあったこと。

大学へ行って。

勉強して。

友達と過ごして。

就職活動をして。

そして、津久見市役所で働くことになった。

給料をもらうようになって。

自分の力で生活していくことを考えるようになった。

その中で。

少しずつ、お金を貯めていた。

夕凪のために。

蒼はポケットの中に手を入れる。

そこには、小さな箱が入っていた。

四年前の高校生だった自分には、買えなかったもの。

今の自分が、働いて得た給料から買ったもの。

指輪。

いつも持ち歩いていた。

渡すタイミングを、ずっと考えていた。

そして――。

夕凪がチーズケーキとコーヒーを持ってきた。

「お待たせ」

「ありがとうございます」

蒼はチーズケーキを一口食べる。

「……やっぱり美味しい」

「結月のチーズケーキだからね」

「はい」

蒼は笑った。

しずくは向こうの席で、プリンを嬉しそうに食べている。

夕凪はその姿を見て微笑んでいた。

その横顔を見て。

蒼は、そっとポケットから小さな箱を取り出した。

テーブルの上。

夕凪の目の前に、静かに置く。

「……え?」

夕凪の目が箱に向く。

蒼は緊張していた。

それでも、逃げずに夕凪を見る。

「夕凪さん」

「うん……?」

蒼は箱を開いた。

中には、一つの指輪。

「これ……」

夕凪の言葉が止まる。

「ずっと持ってました」

「……いつから?」

「仕事を始める前から、少しずつ考えてました」

蒼は指輪を見つめる。

「働くようになって、自分で給料をもらって」

「そのお金で買いました」

夕凪は、何も言えない。

「僕、夕凪さんと家族になりたいです」

静かな店内に、その言葉が落ちた。

「結婚してもいいと思ってます」

「子どもだって……夕凪さんが望むなら、早くてもいいと思ってます」

「夕凪さんが子どもを欲しいって思ってるなら、その気持ちも大事にしたい」

夕凪は指輪を見つめる。

「蒼……」

「僕、四年前に『待たなくていい』って言われましたよね」

「うん……」

「だから、待ってたわけじゃないです」

蒼は、はっきりと言った。

「自分の人生を歩きました」

「大学にも行って、卒業して、仕事も決めました」

「でも、その先に誰といたいかを考えたら」

蒼は夕凪を見る。

「夕凪さんだった」

夕凪の目に、少しずつ涙が浮かぶ。

「家族になりたいって、ずっと思ってました」

「だから、頑張って働きました」

「この指輪も、自分の給料から買いました」

蒼は小さく息を吐く。

「夕凪さん」

「……はい」

「僕と、家族になってください」

その瞬間。

向こうから、しずくの声がした。

「ゆうちゃん!」

二人が振り向く。

しずくはプリンのスプーンを持ったまま、二人を見ていた。

そして、目を輝かせる。

「ゆうちゃん、お姫様になるの?」

夕凪は驚いた。

「え?」

しずくは楽しそうに続ける。

「指輪だよ!」

「ゆうちゃん、結婚するの?」

夕凪は答えられなかった。

指輪を見る。

蒼を見る。

四年前。

高校生だった蒼。

そして今。

二十二歳になった蒼。

四年という時間を、それぞれの場所で生きてきた。

夕凪は、ゆっくり口を開いた。

「……私でいいの?」

蒼は迷わなかった。

「夕凪さんがいい」

「……」

「夕凪さんじゃなきゃ嫌です」

その言葉に。

夕凪の目から、一粒だけ涙が落ちた。

「蒼……」

「はい」

「私……」

言葉が続かない。

しずくが、二人を見ながらニコニコしている。

「ゆうちゃん、お姫様になるんだね!」

夕凪は涙を拭いながら笑った。

「……まだ、分からないよ」

「えー!」

しずくが頬を膨らませる。

「でも……」

夕凪は、指輪を見つめる。

「嬉しい」

蒼の表情が、少しだけ緩んだ。

「本当に?」

「うん」

夕凪は笑った。

「四年間、ちゃんと自分の人生を歩いてきた蒼が」

「今、ここで私を選んでくれたこと」

「それが……嬉しい」

窓の外では、春の雨が降っている。

雨の日にしか開かない「あまなぎ」。

四年前、この場所で始まった想いは。

四年という時間を越えて。

今度は、「家族」という未来へ向かおうとしていた。

そしてテーブルの上には。

チーズケーキとコーヒー。

人と人との縁を結んできた、結月のチーズケーキ。

その一切れを前に。

夕凪は、まだ答えを出してはいない。

けれど。

指輪の小さな輝きを見ながら。

胸の奥では、もうひとつの未来を想像し始めていた。