四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

蒼が帰ったあと。

あまなぎの店内には、雨音だけが残っていた。

夕凪はカウンターを拭きながら、何度も今日のことを思い返していた。

四年ぶりに会った蒼。

スーツ姿になっていた。

大学を卒業して、津久見市役所で働くことになったと言った。

そして――。

「今も夕凪さんのことが好きです」

そう言ってくれた。

夕凪は嬉しかった。

でも、同時に少し困っていた。

「……どうしよう」

小さく呟く。

そして、スマートフォンを手に取った。

電話帳から、幼なじみの名前を探す。

結月。

『むすび洋菓子店』の結月。

夕凪は電話をかけた。

「もしもし?」

「結月?」

『夕凪? どうしたの?』

「今、電話して大丈夫?」

『うん。大丈夫だよ』

夕凪は少し黙った。

何から話せばいいのか分からない。

けれど、結月なら話せる気がした。

「今日ね、蒼が来たの」

『蒼?』

「うん」

『……もしかして、あの蒼?』

「そう。四年前の……」

結月は少し黙った。

そして、

『卒業したんだね』

「うん。昨日、大学の卒業式だったみたい」

『そっか』

夕凪は窓の外を見る。

雨が降っている。

「スーツ着てた」

『うん』

「津久見市役所で働くことになったって」

『へえ……』

「それでね」

夕凪は一度息を吸った。

「今日、チーズケーキを食べて……」

『うん』

「『ここのチーズケーキ美味しいですね』って言ったの」

『ふふ。蒼らしいね』

「だから私、教えたの」

『何を?』

「このチーズケーキ、結月が作ってるんだよって」

『えっ?』

結月の声が少し大きくなる。

「『あまなぎのチーズケーキ』って思ってたみたいだから」

『ああ……』

「本当は、結月のチーズケーキなのにね」

夕凪は笑った。

「私ね、思ったの」

『うん』

「あなたが作るチーズケーキって、人と人をつなぐ特別なものなのね」

電話の向こうが静かになる。

「四年前も、蒼はこのチーズケーキを食べてた」

「そして今日、四年ぶりに戻ってきて、またチーズケーキを食べた」

夕凪は、少し笑った。

「四年越しで、またチーズケーキなんだよ」

『……なんか、すごいね』

「うん」

『まさか私のチーズケーキが、そんなところで二人をつないでるなんて』

「そうなの」

夕凪は少し照れながら言った。

「でもね……」

『うん?』

「蒼に『ここのチーズケーキが好き』って言われたけど」

少しだけ間を置く。

「私は心の中で、違うよって思ってた」

『何が?』

「『あまなぎのチーズケーキ』じゃない」

夕凪は微笑む。

「結月のチーズケーキだよ、って」

『夕凪……』

「だって、結月が作ってくれてるんだもん」

『……ありがとう』

二人の間に、温かな沈黙が流れた。

けれど、夕凪はすぐに表情を曇らせる。

「それでね」

『うん』

「蒼に言われたの」

『何を?』

「今も好きだって」

『……』

「四年前と変わらないって」

結月は何も言わず、夕凪の言葉を待っている。

「嬉しかった」

「本当に嬉しかった」

「でも……」

夕凪は窓に映る自分の顔を見る。

「どうしようって思ってる」

『夕凪……』

「もう私、二十九歳だよ」

『そうだね』

「結月も、もうすぐ三十路じゃん」

『そうだよ。私たち、そんな歳になったんだよね』

二人で少し笑う。

でも、その笑いには少しだけ複雑なものが混じっていた。

「私ね、将来のことも考えるようになったの」

『うん』

「もし子どもが欲しいなら、早くしないといけないのかなって思う時もある」

結月は静かに聞いている。

「結婚とか、家族とか」

「そういうことを考えたら……」

夕凪は言葉を探す。

「蒼は、まだ子どもだから」

『……蒼はもう大学を卒業したんだよね?』

「うん」

『じゃあ、法律上はもう大人だよ』

「うん。分かってる」

夕凪は頷く。

「分かってるけど……」

少しだけ声が小さくなる。

「私の中では、四年前の高校生の蒼がまだ残ってるの」

『ああ……』

「私が見てきた蒼って、高校生だったから」

「だから今日、スーツを着てても……」

夕凪は笑った。

「やっぱり、あどけない顔が残ってた」

『ふふ』

「それに、私が考えてる結婚とか子どもとか、そういう人生と」

「蒼がこれから始める社会人としての人生って……」

「まだ少し、違う気がするの」

結月はしばらく考えてから、ゆっくり言った。

『夕凪』

「うん」

『焦って決めなくていいんじゃない?』

「……」

『子どもが欲しいとか、結婚したいとか。そういう未来を考えるのは大切だよ』

『でも、誰と一緒に生きたいのかも、同じくらい大切じゃない?』

夕凪は黙って聞いていた。

『蒼が社会人になったばかりなら、これから仕事も始まる。夕凪もお店がある』

『今すぐ全部決めなくてもいいと思う』

「……うん」

『四年前の約束を守るために一緒になるんじゃなくて』

『今の二人が、本当に一緒に生きたいと思えるかどうかじゃない?』

夕凪は目を閉じた。

「……そうだね」

『それに』

「うん?」

『チーズケーキが四年越しで二人をつないだんでしょ?』

結月が笑う。

『だったら、もう少しくらい時間をかけてもいいんじゃない?』

夕凪も、ふっと笑った。

「……結月のチーズケーキ、すごいね」

『でしょ?』

「人と人をつなぐんだね」

『じゃあ、これからも作らなきゃね』

「うん」

雨はまだ降っていた。

夕凪は窓の外を眺めながら思う。

四年前。

高校生だった蒼が、チーズケーキを食べていた。

そして四年後。

社会人になった蒼が、また同じチーズケーキを食べた。

変わったものもある。

変わらないものもある。

そして――。

これから二人がどうなるのかは、まだ分からない。

でも。

焦らなくていい。

チーズケーキが結んだ四年の時間のように。

これからの二人にも、二人の時間がある。

夕凪はスマートフォンを胸元に抱えた。

「ありがとう、結月」

『ううん。また何かあったら電話して』

「うん」

通話が終わる。

夕凪はカウンターの上に置かれたチーズケーキを見つめた。

「……結月のチーズケーキなんだからね」

誰もいない店内で、そう呟く。

窓の外では、春の雨。

その雨の向こうにある四浦の海は、静かに揺れていた。