三月に入った。
四浦にも、少しずつ春の気配が近づいていた。
まだ冷たい風は残っているけれど、日差しは少しずつ柔らかくなっている。
そして今日は、朝から雨だった。
雨の日だけ開く「あまなぎ」。
夕凪はいつものように店を切り盛りしていた。
カウンターでコーヒーを淹れ、窓の外を眺める。
「もう三月か……」
三月といえば、卒業の季節。
夕凪の頭に、四年前のことがふと浮かんだ。
高校三年生だった蒼。
あどけない顔で、何度もこの店に来ていた。
そして四年前。
蒼は夕凪に、自分の気持ちを伝えた。
「僕、夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、その気持ちを嬉しく思いながらも、すぐに答えを出すことはしなかった。
「大学を卒業して、そのときにも、まだ私のことが好きだったら、そのときは、一緒にいよう」
そう伝えた。
でも――。
「私を待たなくていいよ」
それも、ちゃんと伝えた。
大学には大学でしかできない時間がある。
新しい友達。
新しい世界。
新しい出会い。
もしかしたら、好きな人が変わるかもしれない。
だから、蒼には蒼の人生を歩いてほしかった。
それから四年。
夕凪は変わらず、あまなぎを続けてきた。
しずくちゃんは小学生になった。
お兄ちゃんは高校生になった。
おじいちゃんも、時々二人を連れて遊びに来てくれる。
そんな日々の中で――。
蒼のことを考える日は、少しずつ減っていた。
忘れたわけではない。
ただ、夕凪自身も自分の時間を生きていた。
*
卒業式の翌日。
カラン……。
あまなぎの扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げる。
そして――。
その場で動きを止めた。
そこに立っていたのは、スーツ姿の青年だった。
真新しいスーツ。
少し大人びた表情。
けれど。
その顔には、四年前のあどけなさが残っている。
「……蒼?」
夕凪が名前を呼ぶ。
青年は、少し照れくさそうに笑った。
「お久しぶりです、夕凪さん」
「……卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
四年。
四年の年月が経った。
それなのに。
蒼のあどけない顔は、どこか変わっていなかった。
「座って」
「はい」
蒼は、四年前と同じ席に座った。
夕凪はメニューを渡す。
「何にする?」
蒼はメニューを見る。
けれど、すぐに顔を上げた。
「チーズケーキと、コーヒーお願いします」
「チーズケーキね」
夕凪は厨房へ向かった。
しばらくして、コーヒーとチーズケーキを蒼の前に置く。
「どうぞ」
「いただきます」
蒼はフォークを手に取り、一口食べる。
そして――。
「……やっぱり、ここのチーズケーキ、美味しいですね」
夕凪は笑った。
「でしょう?」
「四年前も美味しいと思ってました」
「ふふ」
夕凪は少し得意げに笑ってから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、蒼は知らなかったっけ?」
「何をですか?」
「このチーズケーキね、実は『むすび洋菓子店』から仕入れてるの」
「むすび洋菓子店?」
「湯布院にある洋菓子店。結月がやってるの」
「結月さん?」
「うん。私の幼なじみ」
夕凪は少し嬉しそうに話す。
「すごく美味しいんだよ。『縁と縁を結ぶ』っていう想いでお菓子を作ってるお店なの」
蒼はチーズケーキをもう一口食べた。
「だから美味しいんですね」
「どういうこと?」
「夕凪さんが選んでるから」
「もう……」
夕凪は少し照れた。
蒼は笑いながらチーズケーキを食べ続ける。
「これ、また食べに来てもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、また来ます」
「雨の日にね」
「はい」
二人で笑った。
そして、しばらくして。
蒼はコーヒーを一口飲んだ。
「夕凪さん」
「ん?」
「僕、津久見市役所で働くことになりました」
夕凪は驚いた。
「津久見市役所?」
「はい」
蒼は、少し照れながら笑った。
「地元で働きたいと思って」
そして――。
「これで、夕凪さんといられます」
夕凪は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……蒼」
「四年前の約束、覚えてます」
「うん」
「僕、ちゃんと大学を卒業しました」
「うん」
「そして、今も夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、蒼をじっと見つめる。
四年前とは違う。
蒼はもう、大学を卒業した。
自分の人生を歩いてきた。
そして今日、自分の足でここへ戻ってきた。
「……待つつもりないって言ったのに」
夕凪が小さく笑う。
蒼も笑った。
「待ってませんよ」
「本当に?」
「はい」
蒼はまっすぐ夕凪を見る。
「大学では大学の生活をしました。友達もできました。勉強もしました。楽しかったです」
そして、少しだけ間を置く。
「それでも、卒業したら……最初に会いたいと思ったのは、夕凪さんでした」
夕凪は、静かに笑った。
「そっか」
窓の外では、三月の雨が降り続いている。
四年前と同じ雨。
でも、二人はもう四年前の二人ではない。
それぞれの時間を過ごして。
それぞれの道を歩いて。
そして今日、もう一度ここで出会った。
夕凪は、蒼の前にある空になったチーズケーキのお皿を見た。
「……じゃあ、サービスにしようかな」
「え?」
「四年ぶりに帰ってきた記念」
夕凪は笑う。
「もう一つ、チーズケーキ食べる?」
蒼は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「はい。食べたいです」
「ふふ。やっぱり変わらないね」
「何がですか?」
「チーズケーキが好きなところ」
二人の笑い声が、雨音の中に小さく響いた。
四年越しの約束は。
ようやく、今日から始まるのかもしれなかった。
四浦にも、少しずつ春の気配が近づいていた。
まだ冷たい風は残っているけれど、日差しは少しずつ柔らかくなっている。
そして今日は、朝から雨だった。
雨の日だけ開く「あまなぎ」。
夕凪はいつものように店を切り盛りしていた。
カウンターでコーヒーを淹れ、窓の外を眺める。
「もう三月か……」
三月といえば、卒業の季節。
夕凪の頭に、四年前のことがふと浮かんだ。
高校三年生だった蒼。
あどけない顔で、何度もこの店に来ていた。
そして四年前。
蒼は夕凪に、自分の気持ちを伝えた。
「僕、夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、その気持ちを嬉しく思いながらも、すぐに答えを出すことはしなかった。
「大学を卒業して、そのときにも、まだ私のことが好きだったら、そのときは、一緒にいよう」
そう伝えた。
でも――。
「私を待たなくていいよ」
それも、ちゃんと伝えた。
大学には大学でしかできない時間がある。
新しい友達。
新しい世界。
新しい出会い。
もしかしたら、好きな人が変わるかもしれない。
だから、蒼には蒼の人生を歩いてほしかった。
それから四年。
夕凪は変わらず、あまなぎを続けてきた。
しずくちゃんは小学生になった。
お兄ちゃんは高校生になった。
おじいちゃんも、時々二人を連れて遊びに来てくれる。
そんな日々の中で――。
蒼のことを考える日は、少しずつ減っていた。
忘れたわけではない。
ただ、夕凪自身も自分の時間を生きていた。
*
卒業式の翌日。
カラン……。
あまなぎの扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げる。
そして――。
その場で動きを止めた。
そこに立っていたのは、スーツ姿の青年だった。
真新しいスーツ。
少し大人びた表情。
けれど。
その顔には、四年前のあどけなさが残っている。
「……蒼?」
夕凪が名前を呼ぶ。
青年は、少し照れくさそうに笑った。
「お久しぶりです、夕凪さん」
「……卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
四年。
四年の年月が経った。
それなのに。
蒼のあどけない顔は、どこか変わっていなかった。
「座って」
「はい」
蒼は、四年前と同じ席に座った。
夕凪はメニューを渡す。
「何にする?」
蒼はメニューを見る。
けれど、すぐに顔を上げた。
「チーズケーキと、コーヒーお願いします」
「チーズケーキね」
夕凪は厨房へ向かった。
しばらくして、コーヒーとチーズケーキを蒼の前に置く。
「どうぞ」
「いただきます」
蒼はフォークを手に取り、一口食べる。
そして――。
「……やっぱり、ここのチーズケーキ、美味しいですね」
夕凪は笑った。
「でしょう?」
「四年前も美味しいと思ってました」
「ふふ」
夕凪は少し得意げに笑ってから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、蒼は知らなかったっけ?」
「何をですか?」
「このチーズケーキね、実は『むすび洋菓子店』から仕入れてるの」
「むすび洋菓子店?」
「湯布院にある洋菓子店。結月がやってるの」
「結月さん?」
「うん。私の幼なじみ」
夕凪は少し嬉しそうに話す。
「すごく美味しいんだよ。『縁と縁を結ぶ』っていう想いでお菓子を作ってるお店なの」
蒼はチーズケーキをもう一口食べた。
「だから美味しいんですね」
「どういうこと?」
「夕凪さんが選んでるから」
「もう……」
夕凪は少し照れた。
蒼は笑いながらチーズケーキを食べ続ける。
「これ、また食べに来てもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、また来ます」
「雨の日にね」
「はい」
二人で笑った。
そして、しばらくして。
蒼はコーヒーを一口飲んだ。
「夕凪さん」
「ん?」
「僕、津久見市役所で働くことになりました」
夕凪は驚いた。
「津久見市役所?」
「はい」
蒼は、少し照れながら笑った。
「地元で働きたいと思って」
そして――。
「これで、夕凪さんといられます」
夕凪は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……蒼」
「四年前の約束、覚えてます」
「うん」
「僕、ちゃんと大学を卒業しました」
「うん」
「そして、今も夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、蒼をじっと見つめる。
四年前とは違う。
蒼はもう、大学を卒業した。
自分の人生を歩いてきた。
そして今日、自分の足でここへ戻ってきた。
「……待つつもりないって言ったのに」
夕凪が小さく笑う。
蒼も笑った。
「待ってませんよ」
「本当に?」
「はい」
蒼はまっすぐ夕凪を見る。
「大学では大学の生活をしました。友達もできました。勉強もしました。楽しかったです」
そして、少しだけ間を置く。
「それでも、卒業したら……最初に会いたいと思ったのは、夕凪さんでした」
夕凪は、静かに笑った。
「そっか」
窓の外では、三月の雨が降り続いている。
四年前と同じ雨。
でも、二人はもう四年前の二人ではない。
それぞれの時間を過ごして。
それぞれの道を歩いて。
そして今日、もう一度ここで出会った。
夕凪は、蒼の前にある空になったチーズケーキのお皿を見た。
「……じゃあ、サービスにしようかな」
「え?」
「四年ぶりに帰ってきた記念」
夕凪は笑う。
「もう一つ、チーズケーキ食べる?」
蒼は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「はい。食べたいです」
「ふふ。やっぱり変わらないね」
「何がですか?」
「チーズケーキが好きなところ」
二人の笑い声が、雨音の中に小さく響いた。
四年越しの約束は。
ようやく、今日から始まるのかもしれなかった。

